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2008年12月28日 (日)

誠実さで判断する/される事のコスト?【追記あり:09/2/21】

lets_skepticさんのブログ『Skepticism is beautiful』のエントリ記事「求められているのは当たり前の誠実さではないだろうか」のコメント欄へのtittonさんの書き込みに触発されて、個人的に思った事をちょっと書いてみます(tittonさんの意見は、当該エントリ記事への意見としては激しく的外れな気もするので、あえてこちらに場所を変えて書いてみます)。

その前に、私の自己紹介をしておいたほうが何かと誤解がなくて良いでしょう。

まず私は、いわゆる「ニセ科学批判者」ではありません。私はこれまで一貫して「(主観的な)感情論が何よりも大切であり、優先されるべきだ」と主張している人間です。私がしているのは「この事実・この見方を知ってもなお同じ感情を抱けますか/同じ気持ちでいられますか」という問いかけだけです。たとえば、「“水からの伝言”の“実験事実”は自己欺瞞的な大嘘」という事実や、「“水からの伝言”は他者の価値観・感受性・人格を否定するのみならず、人間の尊厳や矜持などをすべて水に委ねてしまう、“自我を放棄し、水の召使いに堕した”と言っても過言ではない、あまりに酷い倫理観」という見方を知って、なお「水からの伝言」に対して肯定的な感情を抱けますか――といった具合に、私がこれまでしてきた事(およびこれからしていくであろう事)は、徹頭徹尾、主観論の話だけです。
もちろん、一度先入観を抱いた人間が認知的不協和の状態に陥ったときに、そう簡単に新たな事実や見方を受け入れられるわけではない――という事は良く知っているつもりです。その事はlets_skepticさんのブログでも「あなたのいう常識は本当に常識なのか」などのエントリ記事でたびたび取り上げられていますし。でも、私はそういった人が、自己否定に陥ろうが、自分の世界に閉じ籠もろうとしようが、より先鋭化してバナナを買い占めようがサリンを撒こうが、因果応報ですからどうでも良いです。いま自分で選んだ人生を生きている人よりも、これから選んでいく人(これから生まれてくる人も含む)のほうが遥かに多いわけですし、私にとっては大切ですので。だからこそ、「幻影随想: 関東地区女性校長会が激しくやばい件」へのコメントのような事も書くわけです。
――以上、自己紹介でした。

さて、当該コメント欄でのtittonさんの「批判的思考」や「科学」についての意見は、もう何度も何度も繰り返されてきたものですので、こちらでは「誠実さ」について個人的に思った事などを……。まぁ、結局は「程度問題」「文脈を読め」的な結論に落ち着きそうなんで、あんまり有益な視点は提供できないかも知れませんけど、そのときは、ごめんなさい。

tittonさんは「社会にとって重要なのは主張の真偽であって、論者の人格ではないはず」と書かれていて、もちろん、これは「ニセ科学批判」の文脈では語り尽くされた感のある論点なわけですけど、僭越ながらあえて今更批判(「非難」じゃなくて「批判」ね)してみます。

もちろん、いつでもとことん主張の真偽を検討できるのならば、それが一番望ましいのですけど、人間のリソースは有限なわけで、主張の真偽を検討する前に、まずその主張が真剣な検討に値するのかどうかを篩い分けしなければならないわけですよ。そのとき、「その論者が誠実かどうか」は重要な判断基準として、もっと評価しても良いのではないか――というのが私の持論。
lets_skepticさんが当該エントリ記事で書いているように、「自分が断言したことでも間違っていれば撤回する(必要に応じて訂正する)という誠実さ。自分が言及すること(したこと)をきちんと知ろうとしているか? という知的誠実さ」が認められるのならば、その主張の真偽の検討はスムースに進むだろうし、「誠実な人ならば“ろくに調べずにものを言っている”“無根拠の思いつきを言っている”“嘘をついている”という可能性は、不誠実な人に比べて相対的に低くなる」わけだから、その主張を真剣に検討する価値はより高まると思うわけです。

要するに、「不誠実な人の言説に振り回されるヒマ・余裕はないよ」という事ですね。

多くの場合、主張の真偽の検討よりも、論者が誠実かどうかの検討のほうが(それが各人の主観に基づく判断で済むが故に)、遥かに容易に判断を下す事ができるのですから、論者の誠実さを批判する(ないし議論・検討して、各人による主観的判断の材料を提示・提供する)行為は知的リソースの経済としては、あながち間違っていないんじゃないかなぁ……と思うのですけど、どうなのでしょうか。
2009年2月21日(土)追記:この段落のカッコ内の記述を追加しました】

もちろん、不誠実な論者だって、正しい主張やとても大切で示唆に富んだ言説を述べる事は多いでしょう。でも、それが本当に正しかったり大切な事だったら、不誠実な論者「だけ」がその事を述べているというなんて状況はおよそ有り得ないわけで、誠実な論者が同じような事を誠実に述べているはずなんですよね。
だから、人間的な誠実さを批判する事、もっと突っ込んで「(よほど興味のある話題でなければ)不誠実な論者はスルー」戦略でさえ、「有益ではない、むしろ損をする」なんていう事は、ちょっと考えづらいわけで……。

それでも、やっぱり「人間的な誠実さを批判するのが有益だとは思わないってこと」「ということで“誠実に振る舞うべき”というのは、無意味だといっている」「不誠実な人間の発言に対しても感情的に反発せずにきちんと検討する習慣をつけるべきだ」という価値観を広めていくべきなのかなぁ……。そうした社会が支払わなくてはならない社会的コストって、すごい事になりませんか?
つまり「不誠実な相手と議論するなんて不愉快だから嫌だ」というよりは、「不誠実な相手と議論するなんて不経済だから嫌だ」という事ですね。

科学の世界だって、多くの科学者は、不誠実だと看過された人の出した論文をまじめに読む事は(よほどヒマだったり、興味をそそられたりしなければ)しないと思うんですけど、それって偏見なのかな?(でも、物理学会とかでは「とんでも」な人たちの発表を初日早朝のセッションに集めるとかいった事もあるらしいから、それほど的外れでもないのかも?)

2008年12月31日(水)追記
このエントリ記事の問題提起を、より主張を具体例に沿って明確に露わに剥き出しにし、言い換えてみました。次のエントリ記事「私は人間を信じている。」も参照下さい。
2009年2月21日(土)追記
「主観的な“誠実/不誠実”の判断はあくまでも主観的なものである」という点に基づく非難・反論については、次のエントリ記事「私は人間を信じている。」に論じられています。端的に言えば、「“誠実/不誠実”の(誤った)判断が引き起こす誤謬・混乱・コストは、その人が“誠実”であろうとする意志によって回避ないし軽減可能である」という事です。この際、その人の主観的な「誠実」の意味内容については(常識の範囲で)問う必要はない――というのが、私の主張です。詳しくは、次のエントリ記事「私は人間を信じている。」にて。

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コメント

やりとりを読んでいた割には要点を読み取れてないように思うのだけど。誠実さを誠実に判断できるなら問題ないが、人間はそれができないから、それに重きを置くと判断を間違う、と述べているのだけど。

自分の主張が間違いだと分かればそれを取り消すのが誠実な姿勢だというのはその通りだけれど、肝心の「間違い」か否かの見解が一致しないのが問題なんだから。意見の一致を見たらもう論争するネタはなくなったんだから、相手が誠実でも誠実じゃなくても関係ないんじゃない?(笑

議論がなおも続くと言うことは意見が一致しないから続いているわけで、誠実さについても意見は互いに一致しないはず。現に元記事でのやりとりでも俺は相手を「不誠実だ」と述べているけれど、相手は(当然だけど)自分が不誠実だとは認めないよね?

こういう場合どうするのさ?第3者の判断を仰ぐのかな?でも第3者が正しい判断を下せる保証はないし、簡単に誰もが納得するような判断を下せるなら、そもそもその話題で論争など起きないはず。

じゃあ多数決で決める?今更いう必要もないと思うけれど多数の意見=科学的に正しい意見ではない。

誠実さの判断基準がそもそも「間違いを認めるか否か」であるなら、その「間違いか否か」をどうやって決めるか。鶏が先か卵が先かという問題になちゃうんじゃない?

人間が他の人間の誠実さを誤りなく判断できるなら、俺だって「誠実さなど無視しろ」などといわない。判断を間違うことが多いから、そういう要素は排除すべきだと言っている。

不誠実な人間は切り捨てて効率化したいという気持ちは分かるけれど、そもそもそこまでして疑似科学批判をやらなければならない義務があるのだろうか。別に自分の分担のノルマがあるわけではない。

世の中には沢山人がいるのだから自分がやらなければ、他の人がやってくれると思うよ。現に誰からも頼まれもしないのに疑似科学批判をしている人は多いじゃないか。妙に(誠実さ判定による)効率化を図ったために誤った判断をしてしまうぐらいなら、他の人に批判を任せた方がいいんじゃないかな?

別に不誠実な論者の言動も多忙な中無理して批判すべきだ、なんて俺はいってないよ?不誠実を理由によく検討せずに「この主張は間違いだ」と決めつけるのはダメだといっている。検討する暇がないならその件については自分は沈黙していればいい。

他の人が批判してくれるだろうし、誰も批判せずに看過できないほどその間違った主張が世にはびこりそうになったら、優先度を上げて集中的にその主張を批判すればいい。

たとえば裁判所が「こいつは以前も嘘をついたから今回もどうせ嘘だろう。めんどくさいから有罪にしちゃえ」と証拠をろくに検討せずに判決を下したらダメだよね?

科学の世界でも不誠実と判断された人の論文をまじめに読む人は少ないというのはその通りだと思うよ。読まなければいい。しかし読みもせずに「その論文の内容は間違いに決まっている」という言動はすべきではない。相手の論文を読みもしないで「きっとあの論文は科学的に間違っているに決まっている!」という言動をするなら、それは科学的な態度ではない。俺はそういうことを言っている。

で、あなたは「これまで繰り返されてきたこと」と何度か書いているけれど、少なくともあなたが上記で述べたような「これまで繰り返されてきたこと」の話は俺はしていないつもりなんだけどね。

投稿: titton | 2008年12月28日 (日) 18:46

ついでに言えば、俺も主幹が大事だと思ってるよ。客観よりも主観の方が大事だ。重要な決定事項のうち客観的な論拠だけで判断できることは少ないし、そもそも客観的な判断でできるなら、それは誰でも(コンピュータにさえ)できるはず。自分しかできない、人間にしかできない、主観的な判断こそがもっとも大事。

しかし科学というのは客観を重視するものなのだから、話は別だ。科学的な判断では客観性を重視しなければならない。言い換えれば科学の重要さはその程度だということ。科学的な判断よりも主観的な判断の方が実際には重要だ。

しかしそれは全体的に見た場合の話であって、ある部分部分だけ考えた場合は科学に基づいて判断した方がよい判断ができることがある。そういう場面では科学を重視するのはやぶさかではない。そして「そういう場面」の話を俺は元ブログで延々と語っているのであって、それが俺の価値観の全体像だと思ってもらっては困る。科学とは俺の価値かの一局面でしかない。

投稿: titton | 2008年12月28日 (日) 18:59

勢いがついてしまったので連投ごめんね。

そもそも興味のない論文、検討する価値のないと思う論文については黙殺するのがちょっと前までの暗黙のルールだったと思うんだけどね。これは俺はこれで一つの正しいあり方だと思う。

しかしそれは承知の通り、批判されない疑似科学は大衆に広まって問題を起こした。そこで今度は疑似科学は積極的に批判しようという風潮になったのが最近の流れだ。これもまた正しいと思う。

しかしその中で勢い余って疑似科学を批判する側が非科学的な手段(不誠実な人間の主張はどうせ間違っているに決まっている)を使ってしまったら、それはダメだと思う。

そういうやり方を子供が見ていて、「これが科学の正しい形なんだ」と思ったらどうするのだろう。水伝は教育上悪いと言うけれど、ならばこういうやり方は教育上悪くないのだろうか。

投稿: titton | 2008年12月28日 (日) 19:35

> tittonさんの意見は、当該エントリ記事への意見としては激しく的外れな気もするので

「誠実さが重要」というエントリに「誠実さを重要視するのはリスクの方が大きい」という意見を書くのが"激しく"とまで言われるほど的外れなのだろうか。

> 事実を受け入れる事に対する不愉快さであって、他人の態度の不愉快さとは別のような気もするのですけど……。

他人の態度を理由に事実を受け容れないのはダメなんじゃないの?

> わざわざ不誠実な人から教えを請う必要もないと思うわけで。

これは全然話が別。わざわざ不誠実な相手から教えを請うべきと言う話は一つも出ていない。なんでそんなことをしなければならないのか(苦笑)。俺が言っているのは相手を批判するならば、不愉快さを我慢して相手の主張をきちんと聞いた上でそれに対して反論しなければならない、という話。

投稿: titton | 2008年12月28日 (日) 20:13

tittonさんのコメントを読んで、どこに同意ができて、どこに齟齬があるのか、ある程度理解できたような気がするので、それを踏まえて、私のここでの主張をまとめてみました。まだ十分理解していない部分も多々あるので、その点はご指摘いただければと思います。

【1-a】不誠実な論者に対して「また何か言ってるよ」「どうせまたヨタ話だろ」といった批判・批評をする事は、多くのいわゆる「ニセ科学批判者」が考えているほど悪い事ではないのではないか。
【1-b】誠実な態度で根拠を述べて「この論者は不誠実だ」と批判・批評をする事は、多くのいわゆる「ニセ科学批判者」が考えているほど悪い事ではないのではないか。

【2-a】不誠実な論者の主張を「この論者は不誠実だから」という理由でスルー・排斥する事は、多くのいわゆる「ニセ科学批判者」が考えているほど悪い事ではないのではないか。
【2-b】確かにそうする事で有益な情報をスルー・排斥してしまうリスクはあるが、不誠実な論者の相手をするというリソースの損失とを秤にかけた場合、それは多くのいわゆる「ニセ科学批判者」が考えているほど大きなリスクとは言えないのではないか。
《例》tittonさんは、lets_skepticさんのところで、有意義なやりとりを成立させるのに苦心されているようですけど、もしも、あらかじめlets_skepticさんが(tittonさんの主観的において)不誠実な方だと分かっていれば/判断できていれば、tittonさんの貴重な時間や能力のリソースをどれだけ他の有益な事に使えていただろうか――と思うわけです。
【2-c】そもそも本当に有益な情報ならば、不誠実な論者だけしかその事を述べていないという事はおよそ考えづらい。「誠実な論者の話しか聞かない」「誠実な論者としか話をしない」戦略を採ったとしても、有益な情報をスルー・排斥してしまうリスクは、実は多くのいわゆる「ニセ科学批判者」が考えているほど大きくはないのではないか。

【3-a】もちろん、上記のような態度は「科学的な態度」とは(直接は)関係はない。
【3-b】ただ、「科学的な態度」をうんぬんする以前の問題として、「科学的な態度で接すべき相手かどうか」「有意義な議論が期待できる相手かどうか」を判断するのに、「誠実かどうか」は重要な判断基準として、もっともっと評価されても良いのではないか。

【4】不誠実な論者に対して「また何か言ってるよ」「どうせまたヨタ話だろ」といった批判・批評をする事を、「これは“科学的な態度”である」として行なっている人がいたら、それは大いに非難すべきである。明確に「科学でないモノを科学と偽る行為」なので、「ニセ科学」として非難しても良いかも知れない。
《補記》【4】については、tittonさんのコメントを踏まえて付け加えました。もしかしたら、議論の前提として【3】【4】あたりに認識の齟齬があるために建設的な意見交換が難しくなっているのかも知れないと感じたので、一応念のために。

投稿: 田部勝也 | 2008年12月29日 (月) 01:15

上のまとめを踏まえて、以下、自分の発言を擁護してみます。このコメントで言及しなかったtittonさんの発言については同意したものとして下さい。
逐語的な反論になってしまい論点が拡散してしまう感は否めませんけど、自分の思索の浅さや文章力の未熟さはとりあえず棚に上げて、読者の読解力を信じる事にします。

>tittonさん「誠実さの判断基準がそもそも「間違いを認めるか否か」であるなら、(後略)」

えーと……(汗)。
tittonさんは、普段の人付き合いで、「この人は誠実な人かどうか」を「間違いを認めるか否か」だけで判断するのでしょうか。私は自分が「この人は誠実だ/不誠実だ」と判断する(「感じる」と言ったほうが合ってるかな?)基準を自分で明文化できませんけど、少なくともtittonさんがおっしゃるほど単純ではないと思っています。

>tittonさん「誠実さを誠実に判断できるなら問題ないが、人間はそれができないから、それに重きを置くと判断を間違う、と述べているのだけど」

ですので、それのどこが悪いのだろうか――と問題提起しているわけです。
もちろん、悪いのは分かっています(分かっているつもりです)。でも、人間の能力的・時間的リソースの経済を考えたとき、「誠実さ」を各人が主観的に判断して行動する事はそれほど不合理とは思えないのですけど、幻想でしょうかね。私たちは普段から常に100%正しい判断をしなくてはならないというわけではないのですから。
もちろん、100%正しい判断をしなくてはならない場面(裁判とか物理法則の探究とか)では、tittonさんのおっしゃる事はもっともだと思いますし、そういう議論はあちこちで繰り返しなされているわけです(「今が100%正しい判断をしなくてはならない場面かどうか」という事も各人の主観的な判断に拠るわけですけど、私の能力ではそこまでを考えた深い議論はできないので、お許し下さい)。
でも、裁判や物理法則の探究に投入され費やされるような莫大なリソースを思うと、どの問題にどの程度「科学的な態度」で接すべきなのかは「程度問題」であり、100%「科学的な態度」で接すべき事柄は、実は私たちの身の回りにはそれほど多くはないのではないか――というのが、私の問題提起なわけです。

「論者の誠実さだけですべてを判断する事は許されない」という主張と同じ程度には「論者の不誠実さは判断の際に一切考慮してはならない」も極論として非難されても良いのではないか……と、私は感じているわけです。
要はバランスの問題なのですけど、たとえ裁判の場においてさえ、「(主観的な)誠実さ」を根拠とした判断はそうそう間違える事はない――と私は思うのです。裁判の場で「こいつは以前も嘘をついたから今回もどうせ嘘だろう」と言う人を「誠実」だと感じる人は少ないでしょうし、審問に対して不誠実な対応(質問の回答になっていない自分勝手な事を延々述べるとか、思わせぶりな事を述べるだけで論拠については聞かれてものらりくらりとはぐらかすとか)をするような人間を「論者の不誠実さが真実の判断に影響を及ぼす事があってはならない」と擁護するというのも心情的に違和感を抱かずにはいられません(もちろん、tittonさんがそんな主張をしているとは思っていませんけど)。

>tittonさん「そういうやり方を子供が見ていて、「これが科学の正しい形なんだ」と思ったらどうするのだろう。水伝は教育上悪いと言うけれど、ならばこういうやり方は教育上悪くないのだろうか」

「一度断言した事でも、正しくない・正しいとは言い切れないと思い直したら率直に撤回し訂正する。自分の発言には責任を持ち、他者からの疑問や意見は真摯に受け止め、必要があれば論拠を詳説したり文献を提示したりする。……そういった事に疎かで無頓着な人(要するに不誠実な人)とは、まともに建設的な議論なんかできないよね」「不誠実な人は何を言っても“どうせまたヨタ話だろ”と思われちゃても仕方ないよね/当然だよね」「“科学的な態度が通用する相手じゃない”“まともに議論するに値しない”と思われないように、普段から誠実さを心がけましょう」といった話を、「科学の正しい形」の話として理解する子どもがいるのかどうか、まず私には疑問です。
そして、エントリ記事でも述べたように、私は「(主観的な)感情論が何よりも大切であり、優先されるべきだ」と主張している人間です。これから人間社会のなかで、人間同士のつながりのなかで生きる事になる子どもたちには、「科学的な態度」を身につける以前に「誠実な態度」を身につけて欲しいと切に願っている人間です。――というより、短い期間ではありましたけど実際に初等教育の現場にいた人間としては、「誠実な態度」が身についていない子に「科学的な態度」を身につけさせる事が本当にできるのか、非常に疑問に感じます。

>tittonさん「他人の態度を理由に事実を受け容れないのはダメなんじゃないの?」

誠実な人が誠実に述べている事実に対して「それは不誠実な態度の人が述べていたのと同じ事なので受け入れられません」というならダメだと思います(前コメント・まとめ【2-c】参照)。実際そういう事って、あるんですか。
不愉快な事実は受け入れる事ができなければいけないと思いますが、不愉快な態度を受け入れてあげる必要はないと、私は思っています。

>tittonさん「俺が言っているのは相手を批判するならば、不愉快さを我慢して相手の主張をきちんと聞いた上でそれに対して反論しなければならない、という話」

私が述べているのは、(主張内容の批判をせずに)相手の態度の不愉快さを批判するのが、なぜそんなに悪く言われるのか、という話です。予想される反論「態度は不愉快でも正しい事を言ってるかも知れないではないか」に対して、「その“正しい事”は、その不愉快な態度の人から得なければならないなんて事はない(つまり“わざわざ不誠実な人から教えを請う必要もない”)」と述べたわけです。

投稿: 田部勝也 | 2008年12月29日 (月) 01:26

最後に直接本題には関係のない余談ですけど……。

>tittonさん「不誠実な人間は切り捨てて効率化したいという気持ちは分かるけれど、そもそもそこまでして疑似科学批判をやらなければならない義務があるのだろうか」

えーと……(汗)。私には文脈が読めていないのですけど、誰か「そこまでして疑似科学批判をやらなければならない」と言った方がいらっしゃるのでしょうか。少なくとも「私はいわゆる“ニセ科学批判者”ではない」と最初に明言していますので、私に対してそう言われても「そんな義務、あるわけないじゃないですか」としか答えられません。

>tittonさん「で、あなたは「これまで繰り返されてきたこと」と何度か書いているけれど、少なくともあなたが上記で述べたような「これまで繰り返されてきたこと」の話は俺はしていないつもりなんだけどね」

「これまで繰り返されてきたこと」というのは、「不誠実を理由によく検討せずに“この主張は間違いだ”と決めつけるのはダメ」「相手の論文を読みもしないで“きっとあの論文は科学的に間違っているに決まっている!”という言動をするなら、それは科学的な態度ではない」という話を想定していました。
で、私はその点についてはここでは述べずに、「誠実さ」について思った事を述べる――と最初に明記したわけです。ちょっと説明不足でしたね。申し訳ありません。

>tittonさん「(前略)ある部分部分だけ考えた場合は科学に基づいて判断した方がよい判断ができることがある。そういう場面では科学を重視するのはやぶさかではない。そして「そういう場面」の話を俺は元ブログで延々と語っているのであって、(後略)」

元のlets_skepticさんのエントリ記事「求められているのは当たり前の誠実さではないだろうか」は、「そういう場面」の話ではないと私は理解していたので(前コメント・まとめ【3-b】のような話だと理解していたので)、このエントリ記事では「tittonさんの意見は、当該エントリ記事への意見としては激しく的外れな気もするので、あえてこちらに場所を変えて書いてみます」としたわけです。

投稿: 田部勝也 | 2008年12月29日 (月) 01:34

> 普段の人付き合いで、「この人は誠実な人かどうか」を「間違いを認めるか否か」だけで判断するのでしょうか。

だれも「普段の付き合い」の話はしてないのだけれど…。俺が一連の話の中で述べているのはあくまでも「疑似科学批判」において、どういう判断が適切なのかだ。あなた自身が図らずも「明文化できない」といっているように、明文化できない判断は排除するのが科学的・客観的な姿勢。科学を離れて別な判断が必要なケース、恋愛相手の言動だとか商取引の信用とか裁判の証人の証言の信憑性とかでは、また別な判断基準で判断すればいいこと。

> ですので、それのどこが悪いのだろうか――と問題提起しているわけです。

そもそも元の記事の論者の主張が「間違いを認めない人は誠実ではない」から始まっているので、俺もそれに添って話を進めているのであって、他の判断だったらまた違う話になってると思うよ。あくまで「間違いを認めるか否か」による判断はメリットよりもデメリットの方が大きいから反対だ、と言っているのであって、仮に客観性が極めて高い判断基準があるならば(俺はあるとは思ってないけど)、それによって誠実さを判断することには必ずしも反対しない。

> 私の能力ではそこまでを考えた深い議論はできないので、お許し下さい)。

そこまで考えた人向けの話をしているのに、それができないというなら少なくとも俺の側にはあなたと議論する価値を見いだせない。相手が信用できるかどうかを科学的・客観的な判断基準を採用しないならば、星占いで決めたっていいことになるじゃん。水の結晶に尋ねてみてもいいし人相学で決めてもいい(笑)。そういう話にはそれこそ時間を費やす価値を俺は見いだせない。

明文化できないよく分からない判断基準を得体の知れない重み付けで判断するやり方の方がむしろよっぽど手間がかかり、得られる信頼性は低いと思うよ。誠実さなんてのは長年その人と付き合ってみなければ分からないこと。赤の他人の言動の信憑性を推測する用途には使えない。

> 裁判の場で「こいつは以前も嘘をついたから今回もどうせ嘘だろう」と言う人を「誠実」だと感じる人は少ないでしょうし、

裁判では「心証」も判断の要素だからね。裁判所は科学では扱えない問題も処理しなければならないのだから、そういう判断も必要だろう。政治や商取引など科学では処理できない事柄はたくさんある。しかしだからといって科学でも同じことをやっていいというあなたの主張は理解に苦しむ。それなら科学なんて必要ないじゃん。

これはあなたに限らず、安直な疑似科学批判者にもいえることだが、何かと「簡単に判断できる」方法を探そうとする。それは言い換えれば広い知識や深い考察がなくてもそれが科学的に正しいか否かを判断できる方法ってことだよね。あの人は人相が悪いからきっと悪人だろう。あの人はヤクザっぽいから近づかないでおこう。そういう判断を日常生活で行うのはかまわないが、それは科学でも何でもない。

科学以外の方法で相手の主張の批判をするならば、それの批判自体が科学ではないのだから、「その主張は科学的でない」というような、科学の名前を冠した批判を行うべきではない。「この人はなんか気にくわない」というように科学的な批判でないことが分かるように批判すればいいこと。科学として正しいか否かの判断はあくまで科学的な手段で行われなければならない。

> 「科学の正しい形」の話として理解する子どもがいるのかどうか、まず私には疑問です。

それなら「水伝」もそんなに心配することないんじゃないの?正直俺は水伝の話を科学的に正しい形として理解する子供がいるとは思えないね。「もしかしたらそういうこともあるのかもしれない」とは思っても、「そういうことも科学的にありえる」と思う子はいないと思うよ。占いを信じるか信じないかという話と同じ。

> 「誠実な態度」を身につけて欲しいと切に願っている人間です。

別にそれは反対しないが、それはもはや科学とも疑似科学とも関係のない話。誠実さを身につけさせるなら宗教教育をした方が手っ取り早いと思うよ。宗教はいろいろ弊害もあるが、基本的には人間がどうすれば正しく生きられるかを説いている。人間を信頼することの大切さ、人から信頼されるにはどうすべきか。水伝だって「どう生きれば正しく生きられるか」という宗教だよね。その意味では案外、トータルでデメリットよりもメリットが上回るかもしれないよ?(笑

しかし何度も言うけれど、科学の中にそういうものを持ち込んではいけない。科学とは非人間的な思想体系であり、それによって他の思想では到達不可能なことを達成している。科学には科学の利点があり、宗教には宗教の利点がある。一方だけ採用すべきではないし、両者の境界をなくして渾然一体となった体系を作るべきでもない。目的によって道具を使い分けるのは当たり前のこと。

> ――というより、短い期間ではありましたけど実際に初等教育の現場にいた人間としては、「誠実な態度」が身についていない子に「科学的な態度」を身につけさせる事が本当にできるのか、非常に疑問に感じます。

話は変わるけれど、あなたのサイトをちょっと読ませてもらった。フェノミナの話は、俺もあの人とは議論したことがあるから懐かしく読んだけれど、気になった点が2つある。一つは疑似科学論者はあざ笑って楽しむべきという考え。たぶんと学会の影響だと思うけれど、おかしなこと、常識とは違うことをいう人間は嘲笑していいんだ、という風潮が子供に教育的によい影響を与えるとは思えない。特にあなたは「おかしなこと」の判断基準として科学的な判断ではなくて、誠実というようなあまり信頼の置けない判断基準を採用しているようだから、それと組み合わさると危険だと思うね。自分が不誠実だと判断した人間には何をやってもいいんだ、と正当化する根拠になり得る。

もう一つはすでに疑似科学に凝り固まった人間をそこから救い出すことはできない、自分はそうなる前の人間を正しく導くことに力を入れるんだ、という考え方。実際問題としてすでに疑似科学が自分の生き方そのものになっている人を説得することはできないだろう。それはその人の人生の大部分を否定することになるのだから、それを受け入れさせるのは不可能だ。しかしだからといってそれを公言して認めてしまっていいのか疑問だ。たとえばあなたの生徒がそう公言するあなたをどう見るだろうか。「不良になってしまったらもう救いようがないので私は見捨てますよ、だから皆さん不良にならないようにしてくださいね」といってるわけだよね。「私はどこまでもあなたを見捨てません」というなら好感を持たれるだろうが、逆だと先生に生徒は信頼を寄せるだろうか。

> 不愉快な事実は受け入れる事ができなければいけないと思いますが、不愉快な態度を受け入れてあげる必要はないと、私は思っています。

それはあなたの生き方なんだろうから仕方ないと思うけど…そういう生き方で日常生活の中で他人とうまくいくのかなぁ。まあ、こうなると科学でも何でもない話になってしまうけど、不愉快な態度をとる人間は受け入れない、という考え方の人間は、本人自身が他人に対して不愉快な態度をとることに無頓着な人が多い気がするんだけどね、経験的に。なぜ相手は自分から見て不愉快な態度をとるのか?を常に考え、表面ではなくその奥底にある心理を考え続けることが他人に対する深い洞察力を育む。不愉快な態度をとる人間は切り捨てていいんだとなると、そういう部分が育たない。

> 私が述べているのは、(主張内容の批判をせずに)相手の態度の不愉快さを批判するのが、なぜそんなに悪く言われるのか、という話です。

そんなことを俺は主張してないんだけど。「論者の不愉快な態度」と「主張の内容の正当性」を結びつけるのがダメだといってるのであって、主張の内容とは別に態度を批判するのはかまわないと思うよ。

無理して我慢して「請え」なんていってないんだけど。無視すればいいこと。しかし(主張の内容の正当性について)批判するなら、相手の主張を聞かなければ的確に反論することはできないんだから、我慢して耳を傾けるしかないんじゃないの?あなたの考えの根本的な誤り(俺から見てだが)は、人間性の教育と科学的な探求を一緒くたにして考えようとしている点。両者は相容れないものだというのが俺の考えであり、人間性の教育は別な方法で行うべきこと。

で、論者の態度を批判する動機としては、あなたに限らずそういう人たちはあれこれ理由をつけてるけど、つまるところ「自分が不愉快にされるのは嫌だ」という一点だよね。それは極めて利己的な動機だ。自分が望むことは他人も望んでいるはずだからそれを推し進めよう、そうすれば社会はよくなる、と正当化している。しかしそういう考えはしばしば間違いを犯す。天動説だって神の教えが社会秩序を守っていた時代、その威厳を損なうような主張は社会にとって不利益をもたらす有害なものだった。

そんな主張をしても誰も得をしなかっただろう、少なくとも当時は。「何で誰も得をしない迷惑な主張をするのか」「そういう思想は排除した方が社会の利益」と人々が考えても不思議じゃないと思うよ。しかし長い目で見ればそういう混乱も必要なことだったわけで、それに比べれば個人が感じる不愉快さなど取るに足らないものだと思うよ。それでもそうした長期的な社会の利益よりも、今この瞬間の自分個人にとっての不愉快さを取り除く方が優先だとなると、これ以上は語る言葉を持たない。

> 私には文脈が読めていないのですけど、誰か「そこまでして疑似科学批判をやらなければならない」と言った方がいらっしゃるのでしょうか。

元の記事の話はそういう話だったよ。少なくとも俺の側はそういうつもりで話していたのだから、半分はそういう話であることは間違いない。あなたがそういうつもりじゃないというなら、別にスルーしてればよかったんじゃない?それなのになぜわざわざ自分のブログにエントリを立ててまで口を挟みたがるのだろう。俺は不愉快な態度をとることを否定していない(つまり肯定している)人間なのだから、あなたにとっては俺自身も不愉快な人間である可能性が高い。あなたはそういう人間とわざわざ議論を始めているわけで、あなたは「なぜそこまでしてtittonという人物と議論をしなければならない」のだろうね?

> 「誠実さ」について思った事を述べる――と最初に明記したわけです。

あなたはここまでの文章の中では誠実さについて実質的に何も語っていないよね。この先も語れないと思うよ、あなたに限らず誰も。人類が数千年かけても語れないのだから。それは疑似科学論者が「未知の宇宙エネルギーがあるかもしれない」と言うのと同じ。そりゃあるかもしれないが、議論に値する段階に到達しているものは少ない。あなたの「誠実さ」に関する話も同様で、今の段階でそれを議論の遡上に上げても互いに何ら得るものがない。あなた自身正直何を語って何をゴールにすればいいか見えてないよね。

結局それは道徳の話であって、それならば道徳教育の領域で仲間を集めて思索を深め確固たる体系を組み上げ、それが完成してから他の分野にも応用すればいいこと。それをいきなり科学の側にも応用しようとするのは、有効性が証明されてもいない未知のエネルギーをいきなり実用化しようとするのにも等しい、一種の詐欺だよ(笑

あと「自分はニセ科学批判者ではない」の件だけど、どうもこれってあなたにとっては免罪符的なセリフになっているような気がする。あなた自身がニセ科学批判者か否かはどうでもいいのだけど、使い方が詭弁の手段として機能しているような印象を受ける。今回の俺とのやりとりに限らず他の人とのやりとりのログを読んだ限り。あなたの話中には典型的な「病んだ論法」の発芽がいくつか見られる。論の組み立てという側面だけ見れば疑似科学論者に近いと思うよ。あなたが使っている論法を使えばどういうことでも主張できてしまう。正しい主張は主張できて、正しくない主張はうまく主張できない論法のみを使って語ることに務めるべき。

> まとめ【3-b】のような話だと理解していたので

有意義な議論ができる相手か否かというのはその前提として「相手と議論をしたい」という動機がなければならないはず。誰も興味のない人間と議論し用途など思わないじゃん(苦笑)。で、元々疑似科学の話なのだから「相手の主張が疑似科学か否かを議論したい」という動機が前提のはず。分野や目的を一切限定せずに、あらゆる議論について成立する基準など考えることは無理だと思うよ?たとえば国の代表同士の交渉の席で「相手の姿勢が不誠実で不愉快だから」と席を立ったら、戦争になっちゃうじゃん。あなたは手に入りようのない大きなものを求めすぎ。

投稿: titton | 2008年12月29日 (月) 08:43

田部勝也さん、tittonさん、はじめまして。ウッちょんと申します。
やりとりを見ていたら、ちょっと気になる点があったので。

一口に「議論」といっても、それらの行われる場や、その話題によって求められる厳密さや客観性はいろいろだと思います。裁判の例は、最も重く客観性が求められる場のひとつですね。一方で、厳密性や客観性が重視されない些末な「議論」も、日常の中には数多くあります。それで、「ニセ科学批判」をそのどちらにより近く位置づけるべきか、というのはそれほど自明ではない問いだと思います。

ここからは私の個人的な考えですが、現段階では、ニセ科学批判の場では厳密さや客観性を多少犠牲にしてでも、多くの人が意見を言えるような環境を作るべきだと思っています。何故かというと、私は世間一般においてニセ科学とその害悪があまり認知されていない、という現状認識を持っているからです。
もし「ニセ科学は有害だ」という一般常識が形成された社会であれば、専門家が厳密性、客観性のある「〜はニセ科学だ」という表明をするだけで十分に効果を発揮するでしょう。素人の意見は全く不要、むしろ邪魔にしかなりません。しかし現状は残念ながらそれとはほど遠く、まずは「ニセ科学」という言葉と、それが有害であること、何故有害であるのかを多くの人に知らしめる必要があります。
ですが、ここで「客観的に厳密にモノを言えないようならニセ科学批判の場に出るな」という圧力が強すぎてしまうと、多くの人が口をつぐんでしまい、まともに批判をするのは専門家を主とするごく少数の人間だけになってしまうでしょう(むしろ現状はこれに近い、とさえ感じます)。それでは、ニセ科学の周知はとても望めません。私は、そうなるくらいであったら、ちょっと理科が分かるくらいの素人でも自分の分かる範囲でモノを言える方がいい、と考えます。その中で、個々の具体的な議論で不十分な点、誤りがあったら、それはよりきちんと理解している者が指摘して直せばいい。そうやってバランスを取りながら、ニセ科学の有害性を世間に広めていくことが現状では必要だと考えます。素人を黙らせるのは、その後でも遅くはない。

結局のところ、「厳密さ/客観性」と「話題の広報性」はトレードオフの関係にあり、場合によって優先度も変わるということではないかと思います。そういう訳ですので、今のニセ科学批判の場で声高に「客観的議論のできないものは去れ」を叫ぶのは、私は好ましいとは思いません(むろん、「池田信夫は不誠実だから、ヤツの言うことはみんなニセ科学だ」なんてのは許されるはずないですが)。
いろんなモノの言い方があってしかるべきです。「気持ち優先」の論者がいてもいいじゃありませんか。たぶん心配しなくても、tittonさんの求める厳密で客観的な議論をする人は、けしていなくならないでしょうから。

投稿: ウッちょん | 2008年12月29日 (月) 15:20

>ウッちょんさんへ

悪いものだから批判・非難されるべきというのはいいけれど、問題は「悪いものなのか」をどう判断するか。悪くないものを悪いと断定して社会から排除してしまったらどうするのか。

そういう点について安易な疑似科学批判論者は非常に無頓着だ。みんなが批判しているから自分も批判する。そうすれば社会はどんどんよくなる。そういう考えは危険だといっている。それって疑似科学論者のやってることと同じだよね。

田部勝也さんもあなたも、そして最初の元記事のブログ主も同じ思考の誤りに陥っている。「(正しく)誠実さを判断できるなら」「(正しく)社会にとって有害な疑似科学を判断できるなら」あなたがたの主張は正しい。

「正しく」それを行うことができないのが問題なのであって、そのステップをすっ飛ばして、「正しく判断できる」という前提で賛成だとか反対だとかいっても意味がない。

投稿: titton | 2008年12月29日 (月) 16:19

きっと水伝を広めている人々も、それが社会のためになると信じて広めているのだろう。疑似科学批判者も疑似科学批判をすることが社会のためになると信じて、義憤に駆られて行っているのだろう。日本は2.26事件、そして太平洋戦争に突き進んだけれど、それも日本の置かれている危機的状況を何とかしたいという一心ゆえの行動だったのだろう。

疑似科学批判というのは学問的な探求なのか、それとも社会運動なのか。その位置づけがふわふわしているために推進派と慎重派が生じる。俺も正直言えば市民団体まで組織して布教に務める疑似科学論者に対抗するには社会運動も必要だとも思ってる。

それならば学問(科学)から切り離して純粋に社会運動として特定の団体や思想に対して社会的な利害に基づいて反対運動を行うべき。
疑似科学は(社会にとって)有害だというのは社会的価値観に基づいた主張であり、もちろんそういう思想をもつことは悪いことではないが、科学を論拠にすべきではない。

科学を社会的な価値観の正当性を裏付ける用途に使うべきではない。それは逆流し科学自体に悪影響を及ぼす。

投稿: titton | 2008年12月29日 (月) 16:34

 私の意見は(もしかしたら、田部さんにとっては意外かもしれませんが)田部勝也さんと同じようなので、特に解説する必要はなくなりました。「ほとんど田部さんに同意です」と書いておきます。

 ここら辺の「認知的コストは有限だから非合理ではない」という話や、感情の話、論理と現実の間にある飛躍についてはもっと書きたいので、機会と情熱があれば書こうと思います。

投稿: lets_skeptic | 2008年12月29日 (月) 16:49

疑似科学論者も疑似科学批判論者も「科学的でない」という言葉を「社会にとって有害である」という意味と同義で使っていることが多い。科学的でなくても正しいことは沢山あるだろうに。

水伝批判の菊池誠も、科学は人間の価値観とは無縁だと自身はいいながら、どうも水伝を批判する時に「科学ではないから」という論法を使っているようでならない。科学が人間の価値観とは無関係ならば、「水伝は社会にとって好ましくない」という主張をする時に「あれは科学ではないから」という論法は使えないはず。

俺の「社会運動の論拠に科学をもちいるべきではない。それは科学に悪影響を及ぼす」とい主張自体、当然のことながら科学的論拠を持たない。これは純粋な思想であって科学的な主張ではない。だからもしかしたらこの主張は間違っているかもしれない。「水伝は社会にとって好ましくない」と言うのも間違いで、実はすごく好ましいものかもしれない。

さらにいえば「科学的でないことを科学的だと吹聴するのは好ましくない」という考え自体、正しい保証はない。思想とはつまるところ「賭け」だ。その思想が正しいから支持するのではなく、その思想に乗った方が(社会にとって)得なはずだ、と賭けてその思想を支持する。

科学と思想の関係はこういうものであり、それをちゃんと踏まえた上で、社会思想として、社会運動として、疑似科学批判を行うなら、それはそれで自由だと思う。しかし自分たちがやっていることが何を意味するのか(学問的な探求なのか社会運動なのか)を承知せずに闇雲に疑似科学批判をすると、いつのまにか「あれ?こんなはずじゃなかった」ということになりかねないと思う。

投稿: titton | 2008年12月29日 (月) 16:49

> lets_skepticさんへ

# ブログ主を差し置いて第3者と議論するのがいいのか分からないが…まあ続けさせてもらう。

非合理ではない、つまり合理化だよね。個人個人がそれをやるのはかまわないが社会にそれが正しいと呼びかけるべきかどうかは問題が違う。あなた個人が不誠実な某経済学者を相手にしないのは自由だが、社会の人々に対して「あの経済学者は不誠実だから相手にしないのが正しい」と呼びかけるのが正しいとは俺は思わない。

そういう主張は十分な論拠と正当性がないかぎり安易に行うと言論封殺につながる恐れがある。政敵のスキャンダルを探して失脚させるようなものだ。

自分にとって「不愉快だから~」という主張は個人の感覚としては全くその通りだろう。俺だって議論をしていて腹が立つことはある。しかし個人の感覚をそのまま社会の価値観に延長するととんでもないことになる場合もあるわけで、あなたをはじめとする人たちはそういう点にあまりにも無邪気すぎだと思う。

民主主義だって考えようによっては非常に不合理でコスト高なシステムだよね(笑

投稿: titton | 2008年12月29日 (月) 17:08

あなたのサイトを読んでいたのだけど

  ターミネーター(田中憲次)氏についてのT.K.の見解。
  http://homepage2.nifty.com/k-tabe/terminat/origin_1.htm

のページの先頭付近にある

| 最悪なのは、「こんなニセ科学信者・カルト信者は、罵倒か嘲笑の対象でしかない」と思い込んでしまう人が出てしまうことです。

と、終わり付近にある

|【3】ターミネーター氏の破天荒な言動を、笑いとばし、楽しむ。……という態度が相応しいのではないでしょうか。

この文章は矛盾しているような気がするのだが…

投稿: titton | 2008年12月29日 (月) 20:34

はじめまして、田部勝也さん。
あらいさんと申します。(敬称略でお願いします)
lets_skepticさんの所から横レスさせて貰いに来ました。

tittonさん(16:49)>
>疑似科学論者も疑似科学批判論者も「科学的でない」という言葉を「社会にとって有害である」という意味と同義で使っていることが多い。科学的でなくても正しいことは沢山あるだろうに。

もう少し具体的に。せめて『誰が・何処で・どのような事を』言っていたかぐらいは。
さもなくば『藁人形論者』の謗りは免れません。

>水伝批判の菊池誠も、科学は人間の価値観とは無縁だと自身はいいながら、どうも水伝を批判する時に「科学ではないから」という論法を使っているようでならない。科学が人間の価値観とは無関係ならば、「水伝は社会にとって好ましくない」という主張をする時に「あれは科学ではないから」という論法は使えないはず。

科学面から水伝批判をしている人間の論理は、『水伝が科学ではないから』ではないです。
『水伝が科学を装っているから』、つまりは『嘘を吐いているから』ですね。
よって上記引用部分の「科学ではないから」は誤解か曲解です。
「科学ではないから」という論法を使っている批判は科学面からの批判ではないか言葉足らずの表現だと判断しましょう。
見かけたら教えて下されば指摘に行くにやぶさかではないです。

>俺の「社会運動の論拠に科学をもちいるべきではない。それは科学に悪影響を及ぼす」とい主張自体、当然のことながら科学的論拠を持たない。これは純粋な思想であって科学的な主張ではない。だからもしかしたらこの主張は間違っているかもしれない。「水伝は社会にとって好ましくない」と言うのも間違いで、実はすごく好ましいものかもしれない。

『水伝は科学を装って嘘を吐いている』ので社会にとって好ましくありません。
水伝の教えに沿った結果を期待して行う行動から得られる結果は、ほぼ確実に期待とは異なる物になるからです(水伝が嘘である故に)。
すると、水伝の教えに沿って善悪を判断すれば間違え、水伝の教えに沿って正誤を判断すれば間違え、誤った判断による偏見が発生すると。
コスト的にも倫理的にもひいては社会的にも好ましくありませんね。

>さらにいえば「科学的でないことを科学的だと吹聴するのは好ましくない」という考え自体、正しい保証はない。思想とはつまるところ「賭け」だ。その思想が正しいから支持するのではなく、その思想に乗った方が(社会にとって)得なはずだ、と賭けてその思想を支持する。

一口に賭けと言っても分が悪いかどうかの判断は出来ますけどね。
『賭けなんだから全部同じだ』は悪しき相対論に近いです。

>科学と思想の関係はこういうものであり、それをちゃんと踏まえた上で、社会思想として、社会運動として、疑似科学批判を行うなら、それはそれで自由だと思う。

貴方の考える『科学と思想の関係の思想』を押し付けられてもね……それは真理ではないわけで。
ましてやそれが悪しき相対論に近い物なら尚更科学側としては許容できませんよ、と。

思想が科学を装って科学的な虚偽を流布するならば、科学側としては例えその思想が科学以外の全てにおいて許容されたとしてもその虚偽を指摘しなければなりません。
『少なくとも私が考える』、科学と思想の関係の『一部分』はこういうものです。
そもそもレイヤーが異なる科学と思想を天秤に掛けるのは論理的な(思想ではなく)誤りだと思いますね。

>しかし自分たちがやっていることが何を意味するのか(学問的な探求なのか社会運動なのか)を承知せずに闇雲に疑似科学批判をすると、いつのまにか「あれ?こんなはずじゃなかった」ということになりかねないと思う。

少なくとも水伝に関しては目的ははっきりしていますので杞憂です。
全ての疑似科学を闇雲に批判するリソースなんて無いですから、影響が大きいものから順次モグラ叩きする事になるでしょうからこちらも心配しなくてもいいですね。
それと疑似科学批判者と十把一絡げにしないで個々のケースを見たほうが良いでしょう。

さておき、tittonさんは
1.言及する対象について正しく理解する事
2.藁人形論法を使用しない事
3.悪しき相対論から脱却する事
この3点について押さえて置いた方が宜しいかと存じます。

投稿: あらいさん | 2008年12月29日 (月) 23:57

ブログ主(田部勝也)です。
たくさんのコメントをありがとうございます。いただいた視点・指摘は重く受けとめ真剣に検討したいと思いますが、まだすべてのコメントを十分咀嚼できていません。議論における私の回答は少し待ってもらうとして、取り急ぎ連絡事項を4点だけ。

■>tittonさん「ブログ主を差し置いて第3者と議論するのがいいのか分からないが…まあ続けさせてもらう」
信じてもらえないかも知れませんが、有意義な議論の場を提供できているのでしたら本望ですので、(原則的に)私の都合を斟酌していただく必要はありません。「コメントをする/しない」は、「この一連の議論において本当に有益・建設的かどうか」だけを判断の基準にしていただければと強く願います。

■コメントが多くなると、誰のどのコメントに対するコメントなのか分かりにくくなってくると思われます。IEでしたら、「表示」→「ソース」をクリックして表示されるテキストが、このページのHTMLテキストになります。HTMLテキスト上では各コメント文章のすぐ上にそれぞれ<a id="●●●">というタグがあると思います。この「●●●」の部分を、
http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#●●●
の「●●●」部分にコピー&ペーストしたものが、そのコメントへ直接リンクするURLになります。
たとえば、一番最初のtittonさんのコメント(2008年12月28日 (日) 18:46)でしたら、「表示」→「ソース」をクリックして表示されるHTMLテキスト上では、当該コメント文章のすぐ上に
<a id="comment-34553531">
というタグがあります。したがって、
http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34553531
とすれば、このURLで、一番最初のtittonさんのコメント(2008年12月28日 (日) 18:46)に直接飛ぶ事ができます。ご活用下さい。

http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34568254
(↑)このコメントの指摘に感謝します。言い訳がましいですが、あのWebページは最初に雛型を作ってから追記を重ね続けて今の形になっています。雛型を作った当時と大きく見解が変化した部分が多々ありますので、時間を見て修正したいと思います。
ただ、できればここには一連の議論に関係のないコメントはご遠慮願いたいと思います。田部個人への私信は、メールかこちらのエントリ記事(↓)
http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/url_1173.html
のコメント欄にお願いします。

■最後に、私のこのコメント(↓)
http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34558546
の特に【3】【4】の見解に対する(その点に限った)直接的な言及をtittonさんからいただければ、私が的外れな回答を繰り返す恐れが少しは減るかも知れない……と私が勝手に感じているという事を書いておきます。

投稿: 田部勝也 | 2008年12月30日 (火) 01:11

> あらいさんさんへ

> もう少し具体的に。せめて『誰が・何処で・どのような事を』言っていたかぐらいは。

いや、俺はそんな細かな話するつもりはないから。そしてあなたがそういう相手とは議論する価値がないというなら、俺はそれで結構。

> 『水伝が科学を装っているから』、つまりは『嘘を吐いているから』ですね。

科学自身は、ある事柄が「科学か科学でないか」を決めることはできない。科学が決められるのはある事柄を科学的に見た場合、それが[科学的に正しいか正しくないか」だけだよ。もちろん科学者は「こういう姿勢で物事を研究するのが科学である」と語ることはできる。しかしそれ自体は科学的な主張ではない。ただのその人のポリシーだ。科学的にどういう姿勢が「科学として正しい」のかは証明もできない。

> 『水伝は科学を装って嘘を吐いている』ので社会にとって好ましくありません。

「科学を装うこと」いやもっと根本にたち帰れば「嘘をつくこと」が好ましいか好ましくないかは、証明できないよね。それは科学でも何でもなく、単なる社会の価値観だ。社会の価値観はしばしば過ちを犯すし、時代によって変遷する。神を絶対視することが正しい時代があったし、現に上梨では国がまとまらなかった時代においては神を信じることが社会的に好ましいことだった。

この先、科学を装って嘘をつくことが好ましいとされる時代が来るかもしれないよ。それは科学が決めることではなく、社会(人々の思想)が決めることだ。若者が希望を失い、人々が不安に苛まれているのは案外科学が宗教的なものの権威を必要以上に解体してしまったからかもしれない。

> 水伝の教えに沿った結果を期待して行う行動から得られる結果は、ほぼ確実に期待とは異なる物になるからです(水伝が嘘である故に)。

あなたのいう「期待とは異なる」というのは、水伝を科学としてみた場合の「期待」だよね。俺は水伝を科学とは思ってないし、水伝を支持する人も同様だろう。そういう人たちが「期待」したもの(それは宗教の信者が神に期待するものとほぼ同じだろう)は得られていると思うよ。だから支持しているわけだ。(一応念のため断っておくと俺は水伝の支持者ではない。むしろ腹立たしいほど水伝を嫌悪している。水伝の批判なら何百行でも書けるだろう(苦笑))。

> すると、水伝の教えに沿って善悪を判断すれば間違え、水伝の教えに沿って正誤を判断すれば間違え、誤った判断による偏見が発生すると。

それは神の教えに従って判断しても同じことだ。神の判断に従っても間違うことはある(笑)。しかし世界には神を信じる多くの人がいる。恐らくデメリットとよりもメリットの方が大きいのだろう。これは驚くには当たらないと思うよ。大部分の人々にとって科学的な考え方はさほどメリットがない。むしろ迷いを取り除いてくれる神(もしくは水の結晶)の存在の方が心の支えになるだろう。水伝をどう呼ぼうと実質的にこれは宗教なのだから、もし水伝を有害だと主張しようとするなら、他の宗教(キリスト教やイスラム教など)も有害だと主張する覚悟が必要だと思うよ。

> 一口に賭けと言っても分が悪いかどうかの判断は出来ますけどね。

歴史を振り返れば「分が悪い」方によって大きな社会的変化がもたらされてきたわけだよ。フランス革命なんて恐らく大部分の人はそんな迷惑なことを望んでいなかったろうし、成功するとも思っていなかったろう。現に王政復古や帝政などに迷走しなかなか成功しなかった。分が悪い方に書けないというのは、既存の価値観をずっと肯定することであり、あなたがそれが正しいと考えるのはかまわないが、もし人類全員がそう考えるような事態になったらむしろ好ましくないと思うよ。

> 貴方の考える『科学と思想の関係の思想』を押し付けられてもね……それは真理ではないわけで。

ならばあなたの思想の方が真理(この場合、現在に限らず今後未来永劫絶対普遍の真理)であることを示して欲しいね。

> ましてやそれが悪しき相対論に近い物なら尚更科学側としては許容できませんよ、と。

あなたが許容しないのは自由だがね。神から民を統治する権利を与えられた王族が人民が統治するのが正しい、それ以外の政治形態は許容しない、というのと同じだと思うよ。悪しき相対論というが、そんなに悪しきものならとっくの昔に駆逐されてるんじゃないの?なぜ駆逐できないのか。それは悪しくない時もあるからだよ。科学が疑似科学をうまく否定できないのも同じ理屈だ。

疑似科学を完全に排除しようとすると、科学に必要な要素まで一緒に排除しなければならなくなる。だからなかなかうまく差別化して排除できない。疑似科学と科学は見分けられるというのは詭弁だよ。いわば方便を使って大衆を騙し、大衆が悪しき疑似科学に惑わされるのを防いでいるわけだ。そういう詭弁・方便はそれはそれで必要な場合もあるから、一概に悪いとはいわないけれどね。

> 思想が科学を装って科学的な虚偽を流布するならば、科学側としては例えその思想が科学以外の全てにおいて許容されたとしてもその虚偽を指摘しなければなりません。

「科学か科学でないか」の論拠をどこに置くのかが問題。繰り返しになるけれどそれは科学的には導き出せない。科学が可能なのは「科学的に見た場合に正しいか正しくないか」であって、それが科学か否かを科学的に立証することはできない。したがって「これは科学ではない」と主張するのは止めないが、それは思想の一つに過ぎないことを自覚した上で行うべきこと。それが社会にとってよい方向に働くか悪い方向に働くかは神のみぞ知ることだ。科学ではその結果は予測できない(苦笑

> そもそもレイヤーが異なる科学と思想を天秤に掛けるのは論理的な(思想ではなく)誤りだと思いますね。

これはそもそも論理的な問題ではないのだから、論理的に正しいか誤りかは意味がない。論理的な判断を適用できないものに対して「論理的に正しくない」と主張するのは、疑似科学ならぬ疑似論理じゃないの?(苦笑

> 少なくとも水伝に関しては目的ははっきりしていますので杞憂です。

あなたの中では「はっきりしている」のだろうけれど、それはあなたの思想や信念の結果であり、論理的・科学的な正当性はないことを自覚すべきだといっている。もちろんその上で主張するのは全く問題ない。しかしそれを論理的・科学的な正当性があると思い込んで主張するなら(科学的な論拠を持たないにも関わらず科学の名の下に正当性を主張する水伝と同じように)間違いだといっている。

> この3点について押さえて置いた方が宜しいかと存じます。

くだらない戯言ですな(笑

投稿: titton | 2008年12月30日 (火) 01:58

田部勝也 | 2008年12月30日 (火) 01:11
http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34572772

> 特に【3】【4】の見解に対する(その点に限った)直接的な言及をtittonさんからいただければ、

【3】については、最初から述べているように誠実かどうかは判断基準として採用すべきではないと俺は考えている。なにを有意義だと考えるかによるかもしれないけれどね。たとえばこれを採用してしまうと大部分の疑似科学論者が切り捨てられてしまうよね。つまりこれは疑似科学論者との議論は無益だといっているに等しい。

疑似科学論者と議論する目的を、彼らの科学的な認識の誤りを正すことと考えるならば、確かに彼らとの議論は無益だと思う。けれど俺が彼らと議論する目的はそれだけではないのでね。なぜそういう考え方をするのか、なぜ彼らを納得させられないのか、いろいろ勉強になる。そういうことも俺にとっては有意義なこと。実際「こういう反論は予想外」というのがあり、自分の考え方を見つめ直すよいきっかけになる。

そもそも疑似科学論者を説得できる確率など0に近いのだから、それを目的とするならばわざわざ判断が難しい"誠実さ"など持ち出さなくても、「疑似科学論者とは一切議論しない」という"よりシンプルな"判断基準の方が便利だと思うけどね(笑

議論は自分と相手が共通の認識に到達するため(だけ)の手段だと思っている人がいるけれど、議論の用途は遙かに広い。認識の一致に至らなくても得られるものはある。そもそもネット越しに何の利害関係もない赤他の他人どうしが議論して認識の一致に到達するかは疑問だね。たとえば交渉ごとなら最終的にどちらも「合意したい」という動機がある。その前提の中でそれぞれ自分の利益をできるだけ大きくしようとする。

しかし利害関係のないもの同士だと、「合意したい」という動機が希薄だよね。別に合意したからといって利益があるわけでもないし、むしろ下手に助干してしまったら損することもある。疑似科学論者が自説を撤回してしまったら本の印税でもう稼げなくなっちゃう(笑)。だからある意味「誤りを認めない」というのは当たり前のことであり、それをどうこう言っても仕方ないと思うけどね。

疑似科学論者に自説を撤回させようとするならば、撤回した方が得をする、逆に撤回しないと不利益を被る、という状況を作り出すしかないと思うよ。それは社会運動などで実現すべきことであって、それを議論によって行おうとするのはそもそも戦術が間違っている。実際、効果を上げてないんじゃないの?また相手の弱点を探るという意味でも、説得に拘らずにいろいろ議論した方が得られるものが多いはず。

【4】については、「また何か言ってるよ」と自分が疑似科学論者を相手にしないのは自由だ。義務も興味もない相手と議論する誰にも義理はないわけで。しかし、それを社会全体に呼びかけるとなると意味合いが違ってくる。根拠をろくに述べずに「この人のこの主張は無視すべき」というのは、それはやってはいけない行為だと思う。だってそれを聞いた人は検証できないよね。

「この人は過去に間違ったことを撤回しなかったことがある」といったって、その過去の事例が今回の事例にどの程度影響を与えることなのか分からない。そもそもそれは本当に間違ったことだったのかも保証がない。その人が嘘をついているのかもしれない。だから前回の主張については結局検証しなければならない。つまりどのみちかなりの手間をかけることになるのだから、そんな持って回ったことするよりも、今回の主張の正当性は今回の主張そのものを検証することで判断した方が確実だと思うけどね。

実際問題としてさ、あなた仮に「あの経済学者は不誠実だから信用するな」と触れ回ったとして、どれだけの人が無条件に信じてくれるかな。ちゃんとした人なら、先ずはあなたの主張の方を疑って自分で検証しようとするんじゃないの?もちろんそのまま信じてくれる(信じてしまう)人もいるかもしれない。しかしそういう信じやすい人というのは、どんなことでも信じやすいのだから、あなたの後に誰かが「あの経済学者は信用できない人だといている人がいるけど、実はそういっている人の方が信用できないんだよ」といったら、またそれを信じちゃうんじゃないの?(笑

投稿: titton | 2008年12月30日 (火) 02:40

ちょっと補足。これは説明しないと分からないかもしれないから。「科学か否か」と「科学的に正しいか否か」の違いについて。

科学は長年の研究の末、結論が出たテーマについては科学的に正しいか否かを語ることはできる。しかし研究途上のテーマについてはまだ正しいか正しくないか分からないのだから語ることはできない。

一方、現在進行中の研究が「この研究って果たして本当に科学的な研究なんだろうか?」という疑問に答えるのはそれほど簡単ではない。これは言い換えれば「この方針のまま研究を続けて、科学的な結論がはたして出そうか?」というのと同じだ。

実験や論証を重視して足下を踏み固めながら進める研究は科学っぽいし、データの取り方も不真面目だし統計の解釈も理解してない人間が研究をしていれば、これはきっと100年やっても科学的な成果は得られないだろう、つまり「オカルトや疑似科学っぽい」となる。

しかしこの区別はそれほど明確ではない。科学にもそもそもどういう方法で論証したらいいか見当もつかない段階があるわけで、論証方法を考えることが研究といってもいいだろう。その段階の研究をオカルトや疑似科学と差別化できるだろうか?まさか有名な研究機関に所属している研究者がやるのは科学で、得体の知れない在野の人間がやるのは疑似科学だなんていわないよね。

つまり簡単に言えば科学とは研究が完成した瞬間に確実な科学になるのであって、それまでは疑似科学と明確に区別できないことになる。でも研究予算がなければ研究できないから、一生懸命「この研究は有望ですよ、科学的な成果が上がりそうですよ」とアピールするわけだ。それって疑似科学論者とあんまり変わらないんじゃないの?という話。

研究途上の未完成のものを大衆に流布するのが問題なのだろうか。確かに研究が完成し「この結論が確実」というものだけを大衆には発表し、研究途上のものは限られた研究者同士のみの秘密にしておくという方法もあるだろう。

しかし研究に対する協力者を広く募るためには、「こういう研究をしてますよ」という情報を出さなければならないし、あの研究者たちは何に研究費を使ってるんだという疑問に答えるには、研究途上のものを示さなければならない。

この研究は有望そうだ、金と時間をかける価値がある、という判断は疑似科学か否かの判断と似ていると思うんだよね。つまり当たるも八卦当たらぬも八卦。核融合が実現するか?はそれが実現するまでは確実なことは何も言えない。それでも実現できそうだという推測の元に金と時間をかけて研究するわけだ。

疑似科学論者が霊魂や宇宙エネルギーの証明の研究に金と時間をかけるのと本質的に違いはない。そして研究の意義を世間にアピールするためにはある程度ハッタリが必要なのも同じ。「この方向で研究していけばきっと霊魂の実在が証明できます」というのと「核融合がきっと可能になります」というのは、原理的にはあまり違わないと思う。

水伝の教祖様が「今は証明できなくてもきっといずれは科学で証明できるようになります」という主張と「核融合はきっといずれ可能になります」どこが違うのだろうか。量的な差はあっても質的な差があるとは思えない。

投稿: titton | 2008年12月30日 (火) 03:26

> tittonさんへ

まずはご回答いただき有り難うございます。
ですがあまり真意を汲み取っていただけなかったようで、残念です。
とはいえ、ここをお読みの皆さまに私の問題意識が少しでも伝わったならそれで良しとしたいと思います。

本筋の議論はあらいさんたちがかなりしっかりとした形でやってくださっていますしね。これにてROMに戻ります。tittonさんも、いちど皆さんがお書きのことをゆっくり読み返してみてはいかがかと思います。

投稿: ウッちょん | 2008年12月30日 (火) 13:38

ウッちょん | 2008年12月30日 (火) 13:38
http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34579575

> いちど皆さんがお書きのことをゆっくり読み返してみてはいかがかと思います。

そういう何の足しにもならないこと(馬鹿でも言えるようなこと、あなたが馬鹿かどうかは別として)しか書けないなら、何も書かない方がいいんじゃないの?CO2の無駄だ(笑

投稿: titton | 2008年12月30日 (火) 14:14

まず先のコメントで『悪しき相対論』と書いたのは『悪しき相対主義』の間違いでしたので訂正いたします。
また、疑似科学はSF等の創作物も概念に含む言葉だと思いますので、以後のコメントではニセ科学と言い改めます。

以下、引用部は分かりやすいように■で括ってます。

>tittonさん
http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34573559
■>いや、俺はそんな細かな話するつもりはないから。■

tittonさんの批判対象の実態を示す気は無いという事ですね。了解しました。

■>科学自身は、ある事柄が「科学か科学でないか」を決めることはできない。
>科学的にどういう姿勢が「科学として正しい」のかは証明もできない。■

水伝の科学的な姿勢ではなく、『水伝の主張の根拠』が科学的に正しくないと言っています。
水伝は科学として間違っていると言っている訳で、科学か科学でないかを決めてもいないし、科学的な姿勢が正しいかどうかも問題にしていません。

■>「科学を装うこと」いやもっと根本にたち帰れば「嘘をつくこと」が好ましいか好ましくないかは、証明できないよね。■

勝手に根本に帰って話を明後日に持っていかないようにお願いいたします。
ここで問題にしているのは『科学を装う虚偽』のみであり、嘘をつくこと一般に対する議論は関係ありません。
そして科学を装う虚偽は、科学的予測に基づく決定において間違いを発生させるなどの不都合を生じるので、明確に好ましくないと言えます。

■>それは科学でも何でもなく、単なる社会の価値観だ。社会の価値観はしばしば過ちを犯すし、時代によって変遷する。■

社会の価値観として嘘を吐くことがどうであるかは此処では問題にしてません。
一応一点だけ、社会の価値観がかつて過ちを犯したとしても、それは今後過ちを防がない理由にはなりません。


■>この先、科学を装って嘘をつくことが好ましいとされる時代が来るかもしれないよ。それは科学が決めることではなく、社会(人々の思想)が決めることだ。■

自分の主張に有利な将来像を勝手に予想しないで下さいね。
科学を装って嘘を吐くことが好ましいとされる時代が来る蓋然性は、それが好ましくないとされる時代が来るよりも蓋然性は低いです。
科学を装って嘘を吐くことを好ましいとする社会は、科学の嘘を原因とする無用なコストが必要となる社会ですので。

■若者が希望を失い、人々が不安に苛まれているのは案外科学が宗教的なものの権威を必要以上に解体してしまったからかもしれない。■

これ、ニセ科学批判には関係の無い事です。
ニセ科学批判の対象は『科学を装う物』であり全ての宗教ではないですから。

■>あなたのいう「期待とは異なる」というのは、水伝を科学としてみた場合の「期待」だよね。■

違います。『水伝の言う通りにしたら、水伝の言う通りの結果になる』という期待です。
水伝を科学と見ようと思想・宗教と見ようと、これは変わりません。

■>俺は水伝を科学とは思ってないし、水伝を支持する人も同様だろう。そういう人たちが「期待」したもの(それは宗教の信者が神に期待するものとほぼ同じだろう)は得られていると思うよ。だから支持しているわけだ。■

実に『どこかで見たような主張』ですが……
さておき、水伝で水の結晶から価値判断を行う事は、宗教の信者が神に期待する物とは違いますね。
神は神が基準なので他に客観的な根拠を与えませんが、水伝は水の結晶という偽りの客観的根拠を与えます。

■>それは神の教えに従って判断しても同じことだ。神の判断に従っても間違うことはある(笑)。■

客観的根拠がそもそも無くて判断を間違える場合と、客観的根拠とした物が間違っているから間違うのでは意味合いが全く異なります。
表層だけの類似性を見て何かを判断するのはやめた方が良いと思いますよ。

■>しかし世界には神を信じる多くの人がいる。恐らくデメリットとよりもメリットの方が大きいのだろう。これは驚くには当たらないと思うよ。■

世界には科学的な考え方をする多くの人もいますね。恐らくデメリットよりもメリットの方が大きいんでしょう。これは驚くには当たりませんね。むしろ、

■大部分の人々にとって科学的な考え方はさほどメリットがない。■

こんな事を根拠も無く言ってしまうtittonさんの方が驚きに値します。主観で決め付けないで根拠を示して下さいね。
ちなみに神を信じる科学者なんて歴史上にも現代にもいます(ガリレオはキリスト教徒でしたね)。
神を信じる事と科学的な考え方は対立項ではありません。

■>むしろ迷いを取り除いてくれる神(もしくは水の結晶)の存在の方が心の支えになるだろう。水伝をどう呼ぼうと実質的にこれは宗教なのだから、もし水伝を有害だと主張しようとするなら、他の宗教(キリスト教やイスラム教など)も有害だと主張する覚悟が必要だと思うよ。■

『水伝は科学を装っている』つまり『偽りの客観的根拠』を与えているから批判されるのです。
この点において、貴方が何を主張しようと実質的に水伝は宗教と異なります。
よって無条件で宗教一般を有害だと主張しなければならないという理屈に成立しません。
仮にキリスト教やイスラム教が偽りの客観的根拠を与えようとするなら当然科学面からの批判対象になりますが(ID論とか)。

■>歴史を振り返れば「分が悪い」方によって大きな社会的変化がもたらされてきたわけだよ。■

『分が悪いかどうかは判断出来るので、賭けなんだから全部同じだとするのは間違いである』というのが私の言った事であり、『分が悪い方に賭けた際の結果』の話はしておりません。
ここでいう分が悪いというのは、『結果予測が精度良く立てられない』という意味です。
社会的変化だのフランス革命だの既存の価値観の肯定だの、関係の無い話をさも関係有りそうに始めるのはやめて下さいね。

■>ならばあなたの思想の方が真理(この場合、現在に限らず今後未来永劫絶対普遍の真理)であることを示して欲しいね。■

私の思想を貴方に押し付けてはいないので、その要求に応じる必要は有りません。

■>あなたが許容しないのは自由だがね。神から民を統治する権利を与えられた王族が人民が統治するのが正しい、それ以外の政治形態は許容しない、というのと同じだと思うよ。■

私が許容しないのは、
『思想とは、その思想に乗った方が(社会にとって)得なはずだ、と賭けてその思想を支持するものである。「科学的ではないことを科学的だと吹聴するのは好ましくないという思想」も「水伝の思想」も社会的に得かどうかは現時点では不明なので思想としては等価だ』
という『貴方の思想』です。
神とか王族とか人民の統治とか異なる政治形態を許容するか否か等は全く関係ありません。

■>悪しき相対論というが、そんなに悪しきものならとっくの昔に駆逐されてるんじゃないの?なぜ駆逐できないのか。それは悪しくない時もあるからだよ。■

悪しき物は必ず駆逐されるという思想をお持ちのようですが、『悪化は良貨を駆逐する』という言葉もありまして、世の中貴方が思う程単純ではありません。

■>科学が疑似科学をうまく否定できないのも同じ理屈だ。■

どちらかと言うと、どんなに明確な否定も理屈抜きで信じている人や正しい理屈を求めようとしない人には通じないという類の話だと思いますが。
悪しき相対主義が駆逐されない事とニセ科学の正誤・善悪・是非にはあまり関係ないですね。
世の中には愚行権という物もある訳ですから。

■>疑似科学を完全に排除しようとすると、科学に必要な要素まで一緒に排除しなければならなくなる。■

ニセ科学は科学的な虚偽という科学にとっての害悪を含み、一方で科学に必要な要素は全く含んでおりませんので科学界からは排除して構わないというか排除しなければなりません。
tittonさんはニセ科学、未科学、非科学の区別は付いてますか?
貴方が想定している科学に必要な要素は、未科学に属する物だと思いますが。

■>だからなかなかうまく差別化して排除できない。疑似科学と科学は見分けられるというのは詭弁だよ。■

科学的に虚偽は見分けられます。虚偽を持つ主張はニセ科学として排除されます。
ニセ科学と科学を見分けられないというのは、貴方が科学について正しく理解してないのが原因であり、詭弁ではありません。
ちなみに科学は未科学を排除しません。

■>いわば方便を使って大衆を騙し、大衆が悪しき疑似科学に惑わされるのを防いでいるわけだ。そういう詭弁・方便はそれはそれで必要な場合もあるから、一概に悪いとはいわないけれどね。■

上記のように科学とニセ科学(悪しき疑似科学)は見分けられるので、この部分は前提が成立してません。

■>「科学か科学でないか」の論拠をどこに置くのかが問題。繰り返しになるけれどそれは科学的には導き出せない。■

大事なので何度も言いますが、科学的な虚偽を含めばそれは科学ではないと導き出せます。

■>科学が可能なのは「科学的に見た場合に正しいか正しくないか」であって、それが科学か否かを科学的に立証することはできない。したがって「これは科学ではない」と主張するのは止めないが、それは思想の一つに過ぎないことを自覚した上で行うべきこと。■

科学的虚偽を含む物を『科学ではない』と言うのは思想ではないのでそんな自覚は必要有りません。

■>それが社会にとってよい方向に働くか悪い方向に働くかは神のみぞ知ることだ。科学ではその結果は予測できない(苦笑■

ニセ科学を元にした思想に基づく行動からは期待通りの結果は得られないので、社会にとって無用なコストを消費させるだろうというのは蓋然性の高い予測です。

■>これはそもそも論理的な問題ではないのだから、論理的に正しいか誤りかは意味がない。論理的な判断を適用できないものに対して「論理的に正しくない」と主張するのは、疑似科学ならぬ疑似論理じゃないの?(苦笑■

私が論理的に正しくないと言ったのは、『貴方の思想』であり、『貴方の思想が扱っている問題』ではありません。
まさかtittonさんの思想のバックボーンとなる論理が無いとは言いませんよね。
もしtittonさんは思想の形成に論理は必要ないとおっしゃるならば、それは此処での主題とは関係無いので放っておきます。

■>あなたの中では「はっきりしている」のだろうけれど、それはあなたの思想や信念の結果であり、論理的・科学的な正当性はないことを自覚すべきだといっている。■

水伝が科学的な虚偽である事は論理的・科学的に明確であり、はっきりしているのは私の中だけではありません。
私の思想や信念に関係なく、水伝の実験では『恣意的な選別・解釈』という科学的ではない手法を用いない限りは水伝の言う結果を再現できないからです。

■>もちろんその上で主張するのは全く問題ない。しかしそれを論理的・科学的な正当性があると思い込んで主張するなら(科学的な論拠を持たないにも関わらず科学の名の下に正当性を主張する水伝と同じように)間違いだといっている。■

科学的な虚偽を批判するのは論理的・科学的な正当性があります。
科学にとってまた社会にとって、科学的な虚偽は有害ですから。(理由は上で述べました)
よって思い込みではないですね。

■>くだらない戯言ですな(笑■

tittonさんが、
1.言及する対象について正しく理解する気はないか、あるいは理解していないという指摘を無視する
2.藁人形論法を使用する、あるいは使用してますよという指摘を無視する
3.表層の類似性のみを根拠に相対化を行う
以上の行為に抵抗を感じない方であるという事は了解しました。
なるほど、一つ上のようなウッちょんさんに対するコメントが出来る道理ですね。

【まとめ】
・科学と思想、科学と宗教は対立項ではない。
・科学とニセ科学と未科学と非科学は区別可能である。
・ニセ科学は科学的な虚偽を流布する故に有害であり、批判される。
・『科学的ではないことを科学的だと吹聴するのは好ましくない』というのは思想ではなく論理的帰結である。
・科学を正しく理解していれば、『水伝』と『科学面からの水伝批判』を思想というレイヤーに乗せて相対化はできない。

今までの議論からtittonさんは科学を正しく理解できていない事が分かりました。
tittonさんにとって『科学のルールに対して虚偽等の不誠実を有する論は、科学として有効な質を有しないので基本的に無視しても構わない(軽く扱われる)』という理屈は理解の範囲外だと思われます。

投稿: あらいさん | 2008年12月30日 (火) 20:48

ブログ主(田部勝也)です。
コメント欄での議論は、私が元々このエントリ記事で論じたかった問題提起から論点が変わってきたように感じています。現在の議論はそれはそれで有意義だと思いますので、このまま続けていただくとして、元々このエントリで私が提起した論点を別エントリ記事としてまとめてみました。興味があればご覧下さい。
「私は人間を信じている。」(↓)。
http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-ebbe.html

【皆様にお願い】
このコメント欄で続けられている議論については、こちらで続けて下さい。特に、このコメント欄のコメントに対する返信・回答などは、このコメント欄にお願いします。あまりにもここのコメント欄が伸び、議論に不便を感じるようでしたら、このコメント欄での議論の続きを書き込む専用のエントリを立てます。
誰もが議論の流れを追いやすくなるように、ご協力をお願いします。

投稿: 田部勝也 | 2008年12月31日 (水) 05:58

tittonさんの提出されている論点について、私の立場・見解を述べるのに適切だと思うので、ずっと以前のコメントに遡って返答する事になりますが、お許し下さい。

http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34560664
>tittonさん「あと「自分はニセ科学批判者ではない」の件だけど、どうもこれってあなたにとっては免罪符的なセリフになっているような気がする」

正直に言って、この指摘は図星です。
いわゆる「ニセ科学批判者」が、直接「科学」や「科学的態度」そのものについて何かを主張していると誤解される事、および、いわゆる「ニセ科学批判者」と見なされている人たちが論じるのはすべて、直接「ニセ科学」に関する主張だと誤解される事――があまりに多いのに、私は正直辟易しています。
ご存知のように、いわゆる「ニセ科学」は「科学でないモノ・コトを科学と装うモノ・コト」です。ここで言う「科学」とは、それが本当に「科学」でないのかどうか科学的・哲学的議論の余地があるようなものは除外されています(たとえば「水からの伝言」が「科学」であるかどうかに議論の余地がないように)。だから、いわゆる「ニセ科学批判者」に対して「科学/科学的態度とは何ぞや」とか「科学の限界を知るべし」とかいった議論を振られても、いわゆる「ニセ科学批判」の文脈でそれに答える事は難しいわけです。
また当然の事ですけど、いわゆる「ニセ科学批判者」と一度見なされてしまったら、「ニセ科学」に関する発言だけしかできない――という事はありません。当たり前すぎる事だと思うのですけど、なかなか理解してくれない人も現実には少なからずいるのです。
さらに言えば、繰り返しになりますが、私は一貫して「(主観的な)感情論が何よりも大切であり、優先されるべきだ」と主張しています。私は、いわゆる「ニセ科学」だから非難しているというわけでは特になく、生理的に嫌悪感・危機感を覚えて非難したモノに、たまたま「ニセ科学」と呼ばれるモノがあった――という個人的経緯があります。
そんなわけで、「ニセ科学批判者」と見なされる事は、私にとっては厄介な説明や弁明の責を負わされそうな印象がどうしても拭えないわけです。要するに「田部勝也はニセ科学批判者」と見なされるよりも、「田部勝也は自分の感情を害するモノを非難しているだけ」と見なされる方が、心理的に遥かにラクなのです。
――しかし、私の非難するモノのひとつに、いわゆる「ニセ科学」があるのも事実なので、悩ましいところです。

http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34565823
>tittonさん「悪いものだから批判・非難されるべきというのはいいけれど、問題は「悪いものなのか」をどう判断するか。悪くないものを悪いと断定して社会から排除してしまったらどうするのか。/そういう点について安易な疑似科学批判論者は非常に無頓着だ」

tittonさんが、その点について私が非常に無頓着だと感じられるのだとしたら、とても残念です(きっと、いわゆる「ニセ科学批判者」たちも残念に思うだろうと想像します)。きっとこの点に関する私の思索は、tittonさんから見れば、まだまだ非常に浅薄で不十分だという事なのでしょう。精進したいと思います。

以上、これ以外にtittonさんの提出されている論点については、まだ私のなかで十分理解し検討し思索の結果を言葉にできるほどの状態に至っていませんので、安易な発言は控えます。

-------------------------
最後に余談ですけど……。

http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34560664
>tittonさん「正直俺は水伝の話を科学的に正しい形として理解する子供がいるとは思えないね。(中略)占いを信じるか信じないかという話と同じ」

この件については、tittonさんと私とで、現実に対する認識にとても大きな隔たりがあるように思います。肯定的か否定的かは別として、同じ「ニセ科学批判」に関心のある人間同士で、これほど基本的な点について、これほど現状認識の差がある事は、私にとって驚き以外の何物でもありません。
私の現状認識については、『【作成中】『水からの伝言』の基礎知識【基礎編】』内の「Q:信じている人なんて、ごく少数の一握りでは?」(↓)
http://kameo.jp/mizuden/faq.html#eikyou01
をご覧下さればと思います。
いわゆる「ニセ科学」とはまったく関係ない話ですけど、占いについても信じる人は無視できないように私は感じています。何の論拠にもならない話で身内の恥を晒すのは心苦しいのですけど、私の母が自殺した遠因に占いがあるのは間違いないという事は述べておきます。

投稿: 田部勝也 | 2008年12月31日 (水) 06:43

田部勝也 | 2008年12月31日 (水) 06:43
http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34589416

> なかなか理解してくれない人も現実には少なからずいるのです。

それは逆にあなたが主張したいことが明確でないからでは?正直言って俺から見てもあなたの話は「この人は何を言いたいのか」と戸惑う。

> 生理的に嫌悪感・危機感を覚えて非難したモノに、たまたま「ニセ科学」と呼ばれるモノがあった――という個人的経緯があります。

どういう経緯であれ、その時行っている議論が疑似科学批判なら、他の疑似科学批判論者と先ずは一括りにされても仕方ないし、自分独自の視点や主張はその中で文章の積み重ねで示していくしかないと思うのだけど。あなただって最初は俺を一括りにして見てたんじゃないの?(笑)自分独自の視点を相手に説明するのは誰もがやっている苦労であって、お手軽な方法で省略できるものではないと思うけど。

> tittonさんが、その点について私が非常に無頓着だと感じられるのだとしたら、とても残念です

仮にあなたがその点について非常に心を砕いているとしても、結果として行っている判断が安易(に見える)なら、あなたがどれほど心外に感じようとも、俺としてはそういう判断をくだすしかない。きっと水伝の信者も自分たちはこんなにも子供のことを考えているのになんで心ない人たちは自分たちを批判するんだろうと嘆いていることだろう。更にいえば俺も俺の言葉が「残念」としか受け取られないことに非常に残念だ。残念さを競い合っても仕方ないじゃん(笑

> 以上、これ以外にtittonさんの提出されている論点については、まだ私のなかで十分理解し検討し思索の結果を言葉にできるほどの状態に至っていませんので、安易な発言は控えます。

とりあえず未完成な思考も書いてみるのも手だと思うけどね。一人で考えてても思考は一定以上は先に進まない事が多い。

> これほど現状認識の差がある事は、私にとって驚き以外の何物でもありません。

現状の認識ではなくその重要さの評価に差があるんじゃないの?たとえばいつだったか小学生に「死んだ人は生き返るか」というアンケートを採ったら、生き返るという答えが予想以上に多くて「これは大変だ」とか騒いでいたよね。俺はこの件についても大変だとは思っていないのでね。占星術や血液型占いについても同様。俺は社会を脅かすような深刻なものとは考えていない。

社会にはもっと有害なものが溢れているのだから、そんな些細な部分の改善に力を入れることは意味がない。意味がないだけならまだしも、必要以上に思想について介入することの方が社会にとって有害度が大きい。たとえ有害度が最重要でなくても少しでも改善した方が社会はよくなるという考え方はただの自己満足であり、俺は間違っていると思うのでね。

みんながみんな正しい知識を持たなければならないという考えに俺は同意できない。そんなことを推し進めれば何が正しいのかが常に問題になるし、それが万一誤っていた場合、すべての人間が過ちを犯すことになる。正しい考えを広めるというのは言葉を換えれば思想統制であり、そういうことは最小限にとどめるべき。科学なら統制しても危険はないと思っているのかもしれないが、その考えこそ甘いと思うね。みんながそれぞれ少しずつ誤った考えをもっているような多様性は安全弁として必要なこと。一方、死んだ人間が生き返るという話を信じている人がいてもそれによって社会がすぐさま脅かされることはない。

# あらいさんへのレスは書くのに時間がかかるので(人のこと言えないが文章が長いw)、今回は先送り。

投稿: titton | 2008年12月31日 (水) 08:40

上のあらいさんのコメント(↓)
http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34583668
のなかに「科学」「ニセ科学」「未科学」「非科学」といった言葉が、とても重要なキーワードとして出てきています。これらの言葉の使い分けはとても重要だと思われますが、広く一般に正しく理解してもらう機会と努力が(その重要性のわりに)少ないように感じます。
いわゆる「ニセ科学批判」について論じる際に、これらの言葉の正確かつ厳密な使い分けは最低限必要不可欠だと思われますので、いわゆる「ニセ科学批判」に(肯定的であれ否定的であれ)少しでも関心を持ったすべての方が、この機会にたとえば『ニセ科学批判まとめ %作成中』(↓)
http://www39.atwiki.jp/cactus2/
内のコンテンツ「ニセ科学批判の基本」(↓)
http://www39.atwiki.jp/cactus2/pages/17.html
などを、ぜひとも一読される事を強くお勧めします(ここに書き込まれた多くのコメントよりも遥かに短い文章です)。

投稿: 田部勝也 | 2008年12月31日 (水) 08:48

あらいさん | 2008年12月30日 (火) 20:48
http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34583668

先ず全体としてね、
 ・科学が扱えるもの
 ・科学が扱えないもの
があり、科学が扱えるものの中に
 ・科学的に正しいもの
 ・科学的に正しくないもの
がある。こんなこと言うまでもないと思っていたのだけど。

「科学が扱えるもの」であれば、それが正しいか間違っているかを科学は判断できる。しかしそもそもそうでないものを「科学的に正しい」とか「科学的に正しくない」といったところで意味がないし、そもそも立脚する根拠が存在しない。

たとば「桃太郎」の話が科学的に正しいかどうか論じることに意味があるだろうか。桃の中から人間が生まれるというのは一般的にはあり得ないことだ。だから一般的な桃だという前提ならこの話は科学的に正しくない。しかしその桃が実は一般的な桃ではなくて桃の形をした宇宙船だったとしたらどうか?そういう話はいくらでも出来るし、実際にそういう本はあるよね。そうなると簡単に「これは科学的に正しくない」とは言えなくなってくる。

物語の中には一般的な桃だと明示されているわけではない。前提となる制約条件が足りないわけだ。だからその部分のパラメータを変えれば、あり得ることにもなるし、あり得ないことにもなる。情報が足りないのだから不足している情報だけで正しいとか正しくないとか論じても意味がない。つまりそういうものは「科学として扱えないもの」だといっている。

もし桃太郎の作者が自分の作品が科学的に評価されることを望むのならば、積極的に不足した情報の提供に協力するだろう。桃のもっと詳細なデータを提示したり、桃太郎がどういう生物なのか、可能なら実物を検査してデータを収集し、それが不可能なら彼の生活の痕跡から参考になりそうなものをピックアップしようとするはず。データが一定以上増えれば桃太郎が実在したか否かを論じることが可能になる。それを「科学的に扱える」状態になったという。昔話そのままではそういう検証に耐えないし、何百年も経過した現在では今更追加情報が得られる当てもないから、科学はそういうものを扱わない。

   *   *   *

次に、虚偽を含むかどうかによって疑似科学(あなたのいうニセ科学)の判別が可能かについて。「虚偽を含むかどうか判別」できれば可能だろう。問題は「虚偽を含むか否か」を判別できるかどうかだ。上記の桃太郎の話でも分かるように、情報が十分でない状態ではそれが虚偽か否かを確定することはできない。研究者が自説の検証に協力的ならば必要な情報を進んで提供するだろうが、それは研究成果に自信があり認められる公算が高い場合だ。わざわざ否定的な結果が出ることが分かっている状態で第3者に検証させる人間はいないだろう。

ところで第3者の検証を経ない段階で自分の研究内容を世間に発表することは別に科学のルールとしても禁じられているわけではない。研究者の謙虚さや良心に委ねられているわけだ。途中の段階でも積極的に公表すれば協力者やスポンサーが現れ、その結果研究が進むという要素もあるだろうから、これを禁止することはできない。これってちまたの疑似科学論者がやっていることと区別できるのだろうか?信頼のある研究機関が行えば研究への投資で、在野のうさんくさいおっさんがやれば、詐欺まがいとなるのだろうか。俺が疑似科学と研究途上の科学の区別ができないというのはこういうことを言っている。

また虚偽といってもその重大さの見積もりには主観が入り込む。その学説の根幹部分に虚偽があれば致命的なダメージかもしれないが、根幹ではない些細な"意図的でない"ミスについては寛容な人も少なくないだろう。意図的に入れた根幹部分の虚偽を、些細な偶然のミスと言い張る「不誠実」な人間はいる。またデータのねつ造を見抜くのにはしばしば長い時間がかかることは、科学の黒歴史を振り返れば明らか。そもそも他人の研究のねつ造をわざわざ暴こうとする奇特な研究者は希で、普通は自分の研究の参考にしようとした研究者が図らずも見つけるものだ。見抜かれる直前までは正しい科学で、見抜かれた瞬間に疑似科学となるなる。この期間が十分に長ければ少なくとも同時代を生きている人にとっては「見抜けない」のと同じだ。100年後にねつ造が分かっても今の我々はそれを知ることができないのだから。

現時点でも見抜けてないねつ造はあるはず。しかしそのことが直ちに一般の人々に悪影響を与えるわけではない。放置していても実害がないケースが大半だろう。ではなぜ水伝は社会に悪影響を与えると多くの人が考えるのか。それはつまり単なる「疑似科学だから」という理由ではないのだ。水伝特有の他の要因があるから、社会にとって有害と見なされ叩かれる。ならば、その有害と見なしている直接の要因の方をストレートに批判すべきであって、持って回ったような間接的な口実(疑似科学だからけしからん)で叩くのはあざとい。それはたとえていえば政治家のスキャンダルを探して失脚に追い込むようなものだ。失脚させたいのはスキャンダルがあるからではなく、他に理由があるわけなのだから。

   *   *   *

水伝の言う通りにしたても、水伝の言う通りの結果にならないという件。これは繰り返しになるけれど水伝が「科学である」という前提で考えているからそういう話になる。あなたの解釈と水伝の支持の解釈が同じだとは限らない。科学の世界では用語や言い回しの解釈がブレないように書き手も読み手も気を遣うが、それはあくまでも「科学」の世界の話。水伝は科学ではないのだから、たとえば「悪い言葉の上に水を置くと"なんどやっても"醜い結晶ができる」という記述一つとっても、科学として解釈した「何度やっても、誰がやっても同じ結果になる」という意味と同じ意味だという保証はない。たぶん試験者の心が清らかでないと、あるいは試験者が水伝を心から信じていないと、同じ結果にはならないのだろう。

水伝はそういう読み方をすべき本であり、そういう本に対して「追試しても同じ結果にならないから科学的に間違いだ」という主張は成り立たない。桃太郎の桃が特に注記されていないのだから誰もが考える桃だろう、という前提で科学的な解釈をすることに意味がないように、水伝について科学的な視点から再現性があるとかないとか、だから科学的に正しいとか間違いとかいうことには意味がない。

繰り返しになるが疑似科学批判論者は何かと「科学的に正しくない」というが、たとえ一見科学っぽく見えたとしてもそれがそもそも科学が扱える範囲外のものについて「これは科学的に間違いだ」と暴走しがちだ。科学が論じられる範囲は非常に狭い。それをむやみやたらに拡大するのは間違っている。また同様に全体的に見れば科学ではないものに対して「この部分だけちょっと見れば科学を装っている(ように見えなくもない)」と因縁をつけるのはヤクザと同じ。確かに科学側から見れば科学を装われるのは迷惑な話だろう。しかしそれは科学側の利己的な都合に過ぎない。それをあれこれ社会にとって有害だとこじつけて全人類にとっての不利益と飛躍するのは、長い目で見れば科学の信用を落とすだけだろう。

たとえばインテリジェントデザインを学校で教えるというのは、限られた授業時間の中で科学に割り当てられた時間が減るという意味で、生徒に不利益を与える。学校は有益な情報を優先して教えるべきで、インテリジェントデザインが物理学や生物学にくらべて実用面で有益だとは思えない。情操面では判断できないから、たとえば道徳の時間に教えるなら俺は反対しない。このようにあくまで明らかな実害や不利益を伴う場合にのみ批判を行うべきで、むやみやたらに批判を行うべきではない。

そんな風潮がエスカレートして、叩くべき疑似科学を一通り叩いてしまったら、次にはまっとうな研究についても市民団体が「この研究は倫理的に問題がある」「こんな研究は費用を使って研究する価値はない。もっと有益な研究に振り向けるべき」と言い出すと思うよ。疑似科学だろうがまっとうな科学だろうが、必要以上に研究活動や言論活動には外部が介入すべきではない。そういう風潮を作るべきではない。

   *   *   *

フランス革命だのの話は関係ないという件。疑似科学批判には2つの側面がある。
・それが科学的に正しくないという指摘
・正しくないものを吹聴するのは社会にとって有害という排除運動
前者は静かにやればいいのであって、それなら桃太郎に対する非科学性の指摘だって、無意味ではあるが、実害はさほど内のだから余暇として行えばいい。一方後者は社会的な影響を意図したものなのだから、どういうことをすれば社会にどういう影響を与えるかは慎重にならなければならない。

科学の世界の中で考えているだけなら、科学的に間違った主張は退けられるという科学のルールに則って行動していればいいが、社会にとって何が好ましいかという問題は科学の世界の中の問題ではなくむしろ社会学の問題なのだから、どのようなことをすると社会にどういう影響が生じるかを考えるべきで、「科学的に正しくない主張」=「社会から弾圧され排除されて当然」というのは、中世の裏返しで暴挙としかいいようがない。

投稿: titton | 2008年12月31日 (水) 13:44

>tittonさん
http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34594271

・『桃太郎の例え話』と『水伝の科学的虚偽』とは対応が正しくありません。桃太郎は科学的虚偽を含みませんが、水伝は含んでます。

・tittonさんが水伝は科学的虚偽を含まないと言うのであれば、tittonさんは科学を理解していないというだけの話です。

・『虚偽の重大さの見積もり』は、『虚偽を批判するしない』とはなんら関係ありません。『批判の優先順位』には関係するかもしれませんが。

・大事なので何度も何度も言ったし再度言いますが『ニセ科学は科学的虚偽を流布する』から批判対象となります。『科学的虚偽を流布する』が理由で『ニセ科学だから』は厳密な理由ではありません。
 また、擬似科学・ニセ科学・未科学・非科学は異なる概念です。

・水伝は特にテレビで取り上げられるなど影響が大きいニセ科学と判断できますので批判されます。その他現在は大きく取り沙汰されてないニセ科学も影響が大きくなれば批判も大きくなるでしょう。

・『たぶん試験者の心が清らかでないと、あるいは試験者が水伝を心から信じていないと、同じ結果にはならないのだろう。』とおっしゃいましたが、試験者の心が清らかであっても、試験者が水伝を心から信じていても同じ結果にはなりません。同じ結果と錯覚する事はあっても。
もう少し科学と現実をきちんと踏まえた議論をしましょう。

・「この部分だけみればちょっと」「ヤクザ的な」「利己的な都合」云々の部分については、貴方が水伝を理解していないだけです。水伝は科学的虚偽である『水は心を理解し、波動がそれを伝える』をその『思想』の根幹にしています。

・『叩くべき疑似科学を潰してしまったら市民団体が「この研究は倫理的に問題がある」「こんな研究は費用を使って研究する価値はない。もっと有益な研究に振り向けるべき」と言い出すと思う』というのはtittonさんの勝手な想像です。そのような蓋然性は高く有りません。

・ ×「科学的に正しくない主張」=「社会から弾圧され排除されて当然」 ○「科学的虚偽を流布するニセ科学」=「科学界からも社会からも排除されて当然」
 科学的に正しくない、では未科学や非科学全般を含む言及になっています。ちゃんと区別をつけましょう。

総じてtittonさんは科学に対する無理解を改める事なく同じ事を繰返し主張されているだけでので此処までにします。

投稿: あらいさん | 2008年12月31日 (水) 14:25

あらいさん | 2008年12月31日 (水) 14:25
http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34594906

まあ最後だというので今までとは違う切り口から。

> ・tittonさんが水伝は科学的虚偽を含まないと言うのであれば、tittonさんは科学を理解していないというだけの話です。

根拠の伴わない断定ですな。あなたの方がそういうのが多いと思うよ。自分では気づいてないのだろうけど。俺はそれなりに手間暇かけてどういう考え方のもとだとこういう結論になるかを説明しているつもりだよ。そして俺が何を重視しているかもね。まあそれが的を射ているかとか正しいかはとりあえず置くとして、俺がそれなりに努力をしていることは分かるだろう。

一方のあなたには自分の側の考えを相手に伝える努力が見えない。あなたの姿勢は「俺は納得しないぞ」という姿勢であって、基本的に相手の発言を拒絶しているだけだ。まあそれ自体は議論において間違った姿勢とは言えないが。「俺は納得しないぞ」だけ繰り返していても相手を説得できるわけがない。守りだけ固めても勝利はできない。そういう意味であなたは議論の初心者だと思うよ。あなたは明らかな事実や理詰めで論証できる話題以外はほとんど他人と議論したことないんじゃない?双方とも「有無を言わせず相手を納得させられる動かぬ証拠」を持たない議論の経験がないだろ?

> ・『たぶん試験者の心が清らかでないと、あるいは試験者が水伝を心から信じていないと、同じ結果にはならないのだろう。』とおっしゃいましたが、試験者の心が清らかであっても、試験者が水伝を心から信じていても同じ結果にはなりません。同じ結果と錯覚する事はあっても。
もう少し科学と現実をきちんと踏まえた議論をしましょう。

ほう、おもしろいことを言ったね。「試験者の心が清らかである」「試験者が水伝を心から信じている」という状態でも同じ結果にならない、と断言したね。つまりそれはあなたが科学的事実として述べたと受け取っていい訳だよね。「心の清らかさ」や「心から信じている」なんてどうやって測定したの?そもそもそういうのは科学として扱えるものなのかな。

いや~これだけ手間暇かけて文章を書き続けた苦労が報われたよ。語るに落ちるというか、最後に気を緩めたんだかしらないがものすごい失言をしてくれたね。これで気分よく正月を迎えられる(笑

> ・「この部分だけみればちょっと」「ヤクザ的な」「利己的な都合」云々の部分については、貴方が水伝を理解していないだけです。水伝は科学的虚偽である『水は心を理解し、波動がそれを伝える』をその『思想』の根幹にしています。

水が心を理解するなんて非科学的なことがあるわけないじゃん(笑)。それは子供が紙に1000円と書いて渡したのを「これはニセ札事件だ」というようなもの。

なんどもいうけれど、水伝を信じている人はそれが科学だから信じているのではない。神様を信じるのと同じで、神社に行けば「ここの神様がこの地を守ってるんだな」と思うようなもの。

> そのような蓋然性は高く有りません。

あなたのいう水伝の有害さの蓋然性もどっこいどっこいだという意味なんだけどね。

> 科学的に正しくない、では未科学や非科学全般を含む言及になっています。ちゃんと区別をつけましょう。

ほんと完全に考え違いをしているようだね。科学では扱えないものがある。それは少なくとも「科学的に正しい」とは言えないよね。ほんとは「科学的に正しくない」とも言えないんだけど、あなたはそれを絶対に納得しない。

まあそれは置いておいて、一方で「この論者は科学的に正しいと主張している」か否かというのは、国語の言い回しの解釈や先入観、主観に依存する問題だ。同じ人が言ったことを聞いても、人によって「あの人はこう主張している」「いや違うこういうニュアンスだった」と判断がブレる。神経質な人とおおらかな人でも違うだろう。

「科学的に正しい」とは言えないことは世の中に無数にある。そして何でもかんでも科学に結びつける被害妄想な人が「あの論者は"これは科学的に正しい"と言っている」と言い出したとしよう。同じ話を聞いた他の人が「え~あの論者はそんなこと言ってないよ」と言ったとしても、被害妄想君は「いや、絶対言った」と譲らない。

その人の中では「科学的に正しいとはいえないこと」を「科学的に正しいと主張している」とう条件が成立してしまうわけだ。そうして「これは虚偽だ」「けしからん」「社会から追放しろ」と突き進んでしまう。これって魔女裁判のようなものだよね。「言ったもの勝ち」だ。あなたが正しいと信じていることの実態は実はこういうえげつないことなんだよ。目を覚ますべき。

> 総じてtittonさんは科学に対する無理解を改める事なく同じ事を繰返し主張されているだけでので此処までにします。

いつも思うんだけど何でこういうことを言う人は、議論を始める前にそれが予測できないのかな。不思議でしょうがない。

投稿: titton | 2008年12月31日 (水) 15:51

http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34590358
>tittonさん「どういう経緯であれ、その時行っている議論が疑似科学批判なら、他の疑似科学批判論者と先ずは一括りにされても仕方ないし、(後略)」
>tittonさん「仮にあなたがその点について非常に心を砕いているとしても、結果として行っている判断が安易(に見える)なら、あなたがどれほど心外に感じようとも、俺としてはそういう判断をくだすしかない」

おっしゃる通りだと思います。その主張に反論の余地はありません。で、私も少し考えてみました。
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どういう経緯であれ、「水からの伝言」の行っている議論が科学の土俵に乗るモノなら、他の科学的議論と先ずは一括りにされても仕方ないし、(後略)
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仮にtittonさんが「“水からの伝言”は“科学”ではない」という点について非常に心を砕いているとしても、〔「水からの伝言」ないしその信者が〕結果として行っている判断〔の根拠〕が科学(に見える)なら、tittonさんがどれほど心外に感じようとも、「水からの伝言」ないしその信者としては「“水からの伝言”は科学的事実の上に成り立つ議論である」という判断をくだすしかない。
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いや、ちょっと言葉遊びをしてみただけです。無視していただいて構いません。

http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34594271
>tittonさん「これは繰り返しになるけれど水伝が「科学である」という前提で考えているからそういう話になる。(中略)水伝は科学ではないのだから、(中略)水伝はそういう読み方をすべき本であり、そういう本に対して「追試しても同じ結果にならないから科学的に間違いだ」という主張は成り立たない」

なるほど、「~という主張は成り立たない」というtittonさんの主張は、「水からの伝言」ないしその信者がどれほど心外に感じようとも、絶対間違いないというわけですね。さすがに主張が一貫していますね。
「水からの伝言」ないしその信者について述べるのに、「水からの伝言」ないしその信者の気持ちなど一切斟酌しないし、する必要はないという徹底した態度は、むしろ清々しいくらいかも知れません。

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http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34595940
>tittonさん「いつも思うんだけど何でこういうことを言う人は、議論を始める前にそれが予測できないのかな。不思議でしょうがない」

それはたぶん、議論を始める前に相手を「科学に対する無理解を改める事なく同じ事を繰返し主張されているだけ」の人間と決めつけるのは、(あらいさんの主観において)誠実ではない――と思っているからではないでしょうか。あらいさんがそうかどうかは想像でしかありませんけど、少なくとも私の場合はそうです。
「誠実さ」の価値を否定するtittonさんが不思議に思うのは当然かも知れませんけど。

投稿: 田部勝也 | 2009年1月 1日 (木) 22:37

私の主張および私という人間を知ってもらうのにちょうど良いと思うので、tittonさんのこのコメント(↓)に対して感じた事(あくまで「感想」)を正直に述べてみます。
http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34590358
>tittonさん「みんながみんな正しい知識を持たなければならないという考えに俺は同意できない。そんなことを推し進めれば何が正しいのかが常に問題になるし、それが万一誤っていた場合、すべての人間が過ちを犯すことになる。正しい考えを広めるというのは言葉を換えれば思想統制であり、そういうことは最小限にとどめるべき」

■「正しい知識」という言葉と「正しい考え」という言葉が出てきてるけど、ここでは意図的に使い分けてるのかなぁ……。
■何度も何度も繰り返し繰り返し、「私がしているのは“この事実・この見方を知ってもなお同じ感情を抱けますか/同じ気持ちでいられますか”という問いかけだけです」と述べているのに、どうしてこういう心配をされるのかなぁ……。
■「何が正しいのかが常に問題になる」という社会は、とても良い社会なんじゃないのかなぁ……。
■すべての人間が「何が正しいのか」という事について一致するなんて心配を本気でしているのかなぁ……。かつてヒトラーやスターリンやポル・ポトでさえ、釈迦やキリストやムハンマドでさえ、カール・セーガンやリチャード・ドーキンスやジェイムズ ・ ランディでさえ到底できなかった事を、いわゆる「ニセ科学批判者」はしようとしている/してしまうかも知れない――と本気で危惧しているのかなぁ……。
■「誠実さ」について語っているエントリで、「正しい考えを広めるというのは言葉を換えれば思想統制」と主張するというのはどこまで本気なのかなぁ……。どんな人のどんな主観による「誠実さ」が、いわゆる「思想統制」を許すのかなぁ……。それとも、その時点で考えうるすべての知るべき事実・見方をすべての人が知ってしまったら、すべての人が同じ「思想」になると心配しているのかなぁ……。
■「そういうことは最小限にとどめるべき」と述べてるけど、「そういう事は一切許さないべき」とは書かないんだね……。という事は許される最小限度の事(この事まで思想統制として非難されるべきではない事)があるっていう事かなぁ……。それは具体的にどのような事が想定されているのかなぁ……。

投稿: 田部勝也 | 2009年1月 1日 (木) 23:36

田部勝也 | 2009年1月 1日 (木) 22:37
http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34618978

> tittonさんがどれほど心外に感じようとも、

別に俺は水伝が科学に見られることを心外になど思ったことはないのだけど?それに信者ならなおのこと科学に見られたら逆に大喜びするだろう。俺の述べた趣旨は心外だとか心外でないとか心の問題など議論においては重要ではなく、あくまで互いに言葉を尽くして論述を繰り返すしか方法がないということ。従ってもし誰か「水伝が科学に見られるのは心外だ」と語る人がいれば、俺は同じように「心外だとか言うことにとらわれるのは無益だ」というだろうね。

> いや、ちょっと言葉遊びをしてみただけです。無視していただいて構いません。

文章の論旨をきちんと理解もせずに言葉遊びをしても、それはあなたの読解力の足りなさをアピールするだけだ。あなたは一時的にせよ教育現場に立っていたという。そしてその事実を自分の主張の中にも盛り込んでいるようだ。「教育現場にいたからこそ~ということが分かる」という主張をしているよね。ならばあなたのその経歴についても俺が触れることに文句はないだろう(当人が隠そうとしている経歴には俺はわざわざ触れようとは思わないが、あなたは自分からアピールしているのだから)。

あなたの一連の言動、今回の言葉遊びの件や、疑似科学論者は嘲笑して楽しんでいいのだという考え、疑似科学にはまってしまった人は救いようがないから見捨てる、などを見るに、もしあなたがあなたの生徒の立場だったら、そんな先生を尊敬し、その言動を自分の生き方に取り入れようと思いますか?と聞きたいね。あなたならそういう先生に「あの先生は都合のいい理屈ばかり言う」と真っ先に反発するんじゃないの?そういう先生が生徒の信頼を勝ち取ることは無理な話。

別な場所の日記でも俺に対して嘲笑的な言動をし、あなた自身この自分の言動はどう見ても誠実には見えないだろうな、と語っている。そういう人間が他人に対してだけ誠実さを要求し、不誠実な人間を自分は切り捨てる、それで問題ないんだ、と主張する。これって単に自分勝手なだけの人間が自分の行いを正当化しているだけだよね。社会にとって何が好ましいとかいう視点などなく、そういう理屈は自分の身勝手さを正当化するための後付のものだ。

あなたが教師の道を断念した直接の理由は知らないけれど、上記のようなタイプの人間は教師に向いていないだろうから、辞めたことはあなたにとっても、そしてあなたの生徒にとっても望ましい選択だったといえよう。

> 「水からの伝言」ないしその信者がどれほど心外に感じようとも、絶対間違いないというわけですね。さすがに主張が一貫していますね。

そんなことは言うまでもないこと。そもそも俺は水伝に批判的な立場なのだし、仮に擁護する立場であったとしても「心外」だとかどうだとかいう要素は議論にとって害こそあれ何の利ももたらさない。俺が「誠実さか否か」は重要でないというのと同様に「心外か否か」も重要ではない。そういう「感情」に起因するものに拘ると客観性や論理性が損なわれた不健全な議論になりがちだ。究極的には「そんな風に批判されたら批判された人たちはどんなに悲しむでしょう」という理屈ですべての批判を否定してしまえることになる。俺が誠実さを否定するのはそういうこと。

> 「誠実さ」の価値を否定するtittonさんが不思議に思うのは当然かも知れませんけど。

自分勝手な誠実さを相手に期待し、期待が裏切られたら「不誠実な相手に時間を浪費させられた。自分は被害者だ」という考え方はむしろ勝手な言い分に見えるけどね。株に投資して儲かれば自分の実力、損をしたら自分は被害者、と主張するのにも似ている。文句を言うのと同様。自分の予測が外れたならばそれは自分の能力が至らなかったためだ。そう考えるのが謙虚な姿勢。


田部勝也 | 2009年1月 1日 (木) 23:36
http://k-tabe.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1c3e.html#comment-34620292

> ■「正しい知識」という言葉と「正しい考え」という言葉が出てきてるけど、ここでは意図的に使い分けてるのかなぁ……。

ん?両者は同じ意味で使っているよ。どっちの単語かに置き換えて統一して解釈してもらって結構。

> 「私がしているのは“この事実・この見方を知ってもなお同じ感情を抱けますか/同じ気持ちでいられますか”という問いかけだけです」と述べているのに、どうしてこういう心配をされるのかなぁ……。

正直言ってそのフレーズの意味がよく分からないんだよね。だからスルーしている。反論さえしてないよね。それは意味が分からず言わんとしていることが読み取れないから。「この事実」も「同じ感情」も何を指しているのか分からないし、問いかけの目的もたぶん「同じ気持ちではいられないはずだ」ということだとおぼろげには分かるけど、意図することもよく分からない。ポエム?(笑)。あるいはなんかの市民団体のキャッチフレーズみたいなものかな。

まあそういう言い回しを好む人はいるだろうから、別にあなたがそういう方法で自分の考えを人々にアピールするのはかまわないけど(だからこれまで気になっていたけど特に否定しなかった)、少なくとも俺にとっては意味不明なのであしからず。

> ■「何が正しいのかが常に問題になる」という社会は、とても良い社会なんじゃないのかなぁ……。

「問題にならない」ことが問題になるということ。たとえばその意味では水伝は人々に科学というものが何かを考えさせるきっかけになってるのだから「とても良い」存在ってことだよね。基本的にあなたはあまり賢くないね。この程度の文章の意味することはちゃんと考えれば読み取れるはず。人は揚げ足をとろうとすると思考力が半減するものだ。相手の文章は基本的に正しいという姿勢で読み取らなくなるから、自分の解釈の未熟さに対するチェックが働かなくなる。

俺も揚げ足取りや挑発的な文章を使うから、それ自体を倫理的に非難するつもりはないが、むやみにそういうことを連発してそういう考え方ばかりすると、物事を深く考えない癖がついて馬鹿になっていくよ?気をつけた方がいい。

> ■すべての人間が「何が正しいのか」という事について一致するなんて心配を本気でしているのかなぁ……

あなたはどちらになりたいのかな?多くの人々が間違った考えにとらわれ、真実を見抜ける側が少数派に転落した社会で、どっち側に属していたいのか。俺はその時少数派にいたいね。一方あなたの話を聞くとコストパフォーマンスから判断すれば自分が間違った側になってもやむなしという考えのようだよね。まあそれは各人の生き方なんだからどちらでもいいと思うが、そういう人が水伝を批判しているのが不思議だ。心配する必要がないなら水伝だって心配する必要ないじゃん。

要するにあなたは社会にとって何が好ましいかとかを考えている訳じゃないんだ。あなたが自分で言っているように、単に自分が個人的な感情として憤りを感じたものを攻撃しているに過ぎず、今回はそれがたまたま水伝だったというだけのことなのだろう。だから一貫性がない。フェノミナの件でも「疑似科学論者を嘲笑すべきではない」という自分の意見と「嘲笑して楽しむべき」という自分の意見が混在してもさして気にとめない。嘲笑する人々に腹が立てば「嘲笑すべきでない」と主張し、疑似科学論者の言動に腹が立てば憂さ晴らしに「嘲笑して楽しむ以外ない」と書き殴る。
自分の感情に正直な人なんだろうけど、そんな人の言動に耳を傾けてくれる人って多くないと俺は思うんだけどね。俺は主観が大切だとは言ったけれど、その主観はその本人の中で一貫していることが必要。もちろん神ならぬ人間の考えることだから事実上すべてを一貫させることは難しいが、一貫させる努力を放棄してはいけないと思う。しかしあなたはその努力を放棄しているように見える。放棄というよりも最初から大切さを認識してない。あなたは自分の考え方が柔軟だと思ってるのかもしれないが、柔軟というのは中心部に芯があるものをいう。芯が3つも4つもあってその間に求心力さえ働かないものは柔軟とはいわない。バラバラという。

> どこまで本気なのかなぁ……。

本気も本気。100%本気だよ。

> どんな人のどんな主観による「誠実さ」が、いわゆる「思想統制」を許すのかなぁ……。

その最たるものが宗教だろう。宗教は主観を統一する試みだ。水伝もそういう要素を含むから俺は批判している。俺は水伝が疑似科学だから批判しているわけではない。

> それとも、その時点で考えうるすべての知るべき事実・見方をすべての人が知ってしまったら、

「すべてを知ってしまう」ことは不可能でも、「知ってしまった」と思い込ませることは可能だ。それがカルト。しかしあなたって呆れるほど何も考えてないね。

> という事は許される最小限度の事(この事まで思想統制として非難されるべきではない事)があるっていう事かなぁ……。

社会を維持するには同じ価値観を共有することが必要だろうに。「王様の統治権は神から与えられた」という価値観を共有する必要があった時代もあった。「素人である国民が政治の最終的な権限を持つべき」という価値観を共有しているのが現代だ。無論その価値観は永遠不変ではなく、時々ダイナミックに変化する。大きな社会的混乱を伴って、ね。しかし全く価値観を共有しなければ社会は成り立たないのだから、いつか放棄しなければならないにしても現在はそれが必要、という意味で最小限の価値観と述べた。

投稿: titton | 2009年1月 2日 (金) 05:31

>tittonさん

なるほど。
これまででtittonさんが嫌と言うほど思い知った通り、確かに私は何も考えず本能だけで生きている気分屋で、自明な事実もなかなか受け入れられない恥ずべき人間ですけど、さすがに改心の必要がある事は理解できました。で、具体的にどう改心すれば良いのかを知るために、出来の悪い生徒なのは覚悟の上でもう少しお付き合い下されば幸いです。
■tittonさんの考える望ましい社会を築く事を考えたとき、今の社会に私ほど愚かな人間は多いのでしょうか。それとも無視して良いほど稀な例なのでしょうか。
■無視して良いほど稀な例なのだとしたら、差し当たって私は積極的に意見表明する事をやめ、静かに目立たず暮らしていれば、tittonさんの考える望ましい社会を築けますか。
■無視できないほど多いのだとしたら、私も含めたそのような人間たちをどうすれば、tittonさんの考える望ましい社会に近づけるのでしょうか。

投稿: 田部勝也 | 2009年1月 2日 (金) 06:31

> 田部勝也 さんへ

なんかとりとめのない話だな。望まし社会の姿を描きそれに対して必要なことを行っていくというマスタープラン方式はうまくかない。共産主義が行き詰まった事で明らかだ。盲目の時計職人すなわち試行錯誤と自然淘汰こそが結果的に発展性に富み活力のある社会を作り出す。そういう社会が俺にとって「よい社会」だ。

発展性と活力が維持できるなら戦争や犯罪はあってもいいし、たとえば俺の大切な人が犯罪に巻き込まれて死んでしまったとしても、もちろん俺個人は悲しむし怒りに震えるかも知れないが、それは個人の利己的な感情だと考えている。俺自身が人間なのだから利己的な感情や思考にとらわれることもあるだろうが、それは正しくない思考であり、もし俺がそういう状態に陥ったならば誰かが正してほしいものだ。

その意味であなたの考える「よい社会」とは姿が違うかも知れない。犯罪が減り戦争がなくなり、人々がいさかいあわなくても住む社会が「よい社会」と考えている人たちとは根本的な価値観が違うのだから、意見の一致を目指すことは困難を極めるだろうね。

俺は個人の幸せよりも社会全体の発展性の方が重要だと考えている。しかしだからといって全体主義とも違う。全体主義とはすべてを統括する意志の下にマスタープランを作りその通り実施する携帯となるが、神ならぬ人間にそのような大役は務まらない。個人個人が試行錯誤と生存競争を繰り広げること、それを推奨するような社会を作ることが、持続的に発展する社会になると考えている。その意味では個人を重視することが社会にプラスになると言う考えだ。

個人を重視する考え方の中には本当に個人が大事だと考えている人が多いが、俺はそういう考え方をしない。個人の自由を重視することが社会全体にプラスになるから個人を重視している。

で、その考えにおいてあなたのような人が多いか少ないかはほとんど関係がない。ただ、誠実さを重視することはそれに反した言動を制限することに繋がり、それは個人の自由な思想活動を阻むとかんがえるから、反対している。同様に「正しくない考え」は多様性を生み出し生存競争を活発化させるという意味で、俺は必ずしも有害だとは考えていない。

俺が有害だと考えるのは多様性を運なわせるような思想だけだ。俺が水伝や宗教にしていて機なのはそれが間違っているからではなく、社会の多様性を制約し一つの思想に統一する方向に働くからだ。疑似科学批判についてもそれが暴走すると思想の自由の制約に繋がると考えるから過激なものについては反対している。

投稿: titton | 2009年1月 2日 (金) 09:12

仕事が忙しくなってきました。取り急ぎ、何点か。

tittonさんの考える「よい社会」が、いわゆる「ニセ科学批判者」や私の考える「よい社会」とほとんどの点で一致する事は分かりました。でも、いくつか異なる点もあるようですので、その点について質問させて下さい。

【Q-1】tittonさんの考える「よい社会」に、その社会の理念に反する主張をする人(ここでは具体的に「すべての人たちをある一つの思想に統一しようという主張をする人」としましょう)が現れた場合、この「よい社会」はどのように対応すべきですか。

【Q-2】tittonさんの考える「よい社会」では、「個人個人が試行錯誤と生存競争を繰り広げること、それを推奨するような社会を作ることが、持続的に発展する社会になると考えている」といったこの「よい社会」の理念を、「よい社会」の構成員たちは認識しているべきですか。
【Q-2a】もしも多くの人がそういう認識を持つ事が望ましいならば、この「よい社会」はそれをどう人々に認識させるべきですか。
【Q-2b】もしも多くの人がそういう認識を持つ必要がないならば、この「よい社会」の人々がこの「よい社会」の理念に反する言動を行わない事を、この「よい社会」はどのように担保していますか。

【Q-3】tittonさんの考える「よい社会」で、意見の対立があり議論が始まったとします。このときに、相手の意見を理解しようとせず、相手の疑問や要求にも答えず、争点となっている事柄についてよく知ろうともせず、一方的に自分の意見だけを述べるような人がいたとしたら、この「よい社会」はどう対応すべきですか。

投稿: 田部勝也 | 2009年1月 4日 (日) 02:45

おおざっぱな話に細かい点をちまちま突っ込むね(苦笑)。ここの人間は別に認識手いる必要はないんだよ。それぞれ自己中心的に振る舞ってOK。犯罪を否定しないといったろ?そもそも生存競争とは自己中心的なものだ。

生存競争が永久に行われ続けるには特定の思想が寡占状態になるのを防ぐ事が大事。正しくない思想ならなおのことだし、たとえ正しい思想であってもそれが社会のすべてを塗りつぶしてはならない。

で、あなたはすべての人間一人一人がそういう認識(俺と同じ考え)になるべきだと思ってるんだよね。Q-3とかを読むと。俺はそうは考えない。別に多くの人がそう考えなくたってそういう社会は実現できるし現に実現できているよね。たとえば戦争は生存競争の最たるものだけどそれは少数の人間によって始められる。多くの人間はむしろ平和(生存競争のない世界)を望んでいるにもかかわらず、ちゃんと生存競争は実現されている。

ただ繰り返しになるけれど、本当に戦争が起きなくなるほど平和を願う声が高まると(あるいは人と人が争うことが忌むべきものだという教育が徹底されると)試行錯誤のサイクルが止まってしまうから、社会が平和にならないように仕向けなければならないね。しかしそれとて多くの人間にそういう思想を広める必要はない。

たとえば俺が誰かに暴言を吐いたとしよう。その人は怒って、それまで掲げていた誠実さなどかなぐり捨てて感情的な方向に暴走し俺を全力で排除しようとするかも知れない。その人は俺の「生存競争が続くことが大事」という思想を理解してそういう行動をしたわけではないが、結果的にはそれを後押しする行動になる。

別に「正しいこと」を理解させずとも「正しく」振る舞わせることは可能なわけだよ(笑)。競争が続く仕組み(枠組み)さえ構築すれば、その中で人々は意識しようがしまいが競争し続ける。「競争が大事」だと教育する必要すらない。そして枠組みの構築にはほとんどの場合多くの人間の協力や理解は必要なくてできる。

投稿: titton | 2009年1月 4日 (日) 06:34

人間は基本的に他人と争い合うように出来ている。生物がこれまでそうしてきたんだから人間もそういう風に出来ている。よっぽど妙に人間の思考が「競争は悪だ」と言う方向に暴走しない限りね。しかしその妙なことが時たま起きる。共産主義国家の成立とかね。時たまある一つの思想が余りにも力を持ちすぎてしまう事がある。

そういうときはかき回さなければならない。中東情勢って和平が成立しかかると過激な強硬派が死にものぐるいでテロを連発して和平を潰すよね。このまま平和にさせてはならじ、と。少数の人間が和平を潰すわけだ。

それと同じ事をやればいいわけ。

投稿: titton | 2009年1月 4日 (日) 06:46

回答ありがとうございます。tittonさんの考える「よい社会」と、いわゆる「ニセ科学批判者」や私の考える「よい社会」とがほとんどの点で一致する事が、ますます明らかになりました。一方で、両者の違う点も鮮明になってきたように思います。tittonさんの考えをより深く正しく知るために、質問を続けさせて下さい。

【Q-4a】N線は発表されてから完全に決着がつくまで3年かかりました。一方、フライシュマン&ポンスの常温核融合は、日本の通産省研究プロジェクトが否定するのに9年と約30億円、アメリカのエネルギー省が否定するのに15年かかりました。この差を、tittonさんないしtittonさんの考える「よい社会」はどう考えますか。
【Q-4b】また、ルイセンコ学説は誰も相手にしなくなるまでに発表から20年以上の歳月とおびただしい命が失われました。これを、tittonさんないしtittonさんの考える「よい社会」はどう考えますか。

【Q-5】周知の通り、人間が生来的・本質的に持つ破壊的・破滅的な欲動・衝動(倫理学などではそれら諸々をまとめて「情念」と呼ぶ事があるようですが)の爆発をどう抑え制御するかという事は、それを(私の知る限り)初めて明示的に論じた17世紀デカルト以前――おそらくは有史以前――から人類の最大の関心事の一つでした。ケインズは「他国民や他民族に向けられる情念を自分の銀行口座に向けさせる事ができれば、まだましなのではないか」といった主旨の事を述べています(cf.岩波文庫版『雇用、利子および貨幣の一般理論』下巻181頁)。教育学では、人間が本来的に持つ防衛機制を利用して、破壊的な情念をスポーツや芸術や勉学などに昇華させようという方法論が今でも一般的です。これら一連の倫理学的な人類の試み・努力について、tittonさんないしtittonさんの考える「よい社会」はどう考えますか。

【Q-6】tittonさんの考える「よい社会」は、その社会が人類を滅亡ないし破滅的な事態に導かない事をどのように担保していますか。それとも、tittonさんの考える「よい社会」は、もしも仮に人類が滅亡したり破滅的な事態が起きたとしても一向に構わないとする立場ですか。

【Q-7】tittonさんの考える「よい社会」において、もっとも得をするのは誰ですか。言い換えれば、その社会において、幸せになれるのはどんな人ですか。その社会は誰のための社会/誰を幸せにする事のできる社会ですか。それとも、tittonさんの考える「よい社会」は、誰も幸せになんかなる必要はないとする社会ですか。

――質問は以上です。
tittonさんには、これらの質問(Q-1~Q-7)に対していわゆる「ニセ科学批判者」や私がどう回答するかをここで述べる必要はないでしょうけれど、いわゆる「ニセ科学批判」についてまだ良く知らない人たち/誤解をしている人たちがここを見る可能性がないわけではありませんので、私自身の回答は後日コメントしておきたいと思います(今はちょっと仕事が忙しいので、ここまででご容赦下さい)。

投稿: 田部勝也 | 2009年1月 6日 (火) 03:36

> tittonさんないしtittonさんの考える「よい社会」はどう考えますか。

別に特別な意見はないけど?3年と15年の差に意味があるとは思えない。それが300年でもたいした意味はないと思うけどね。あと相手に意見を聞くなら「自分はこう考える」という意見も述べるべき。

> 20年以上の歳月とおびただしい命が失われました。

同上ですな。人命の犠牲についても一つの文明が丸ごと滅びるというレベルでないなら、大して深刻なものではない。それよりも既に述べたように持続可能な試行錯誤&自然淘汰のシステムを回すことの方が重要。あなたはおそらく「そういう犠牲は避けるべきだ」といいたいのだろうが、俺はそう考えないといってるだろうに。あなたは「同じ考えだ」といってるけれど、あなたと俺はまったく同じ考えではないね。社会(持続可能な発展性を持つ社会)のために個人(の命)が犠牲になることは必要なことだと俺は考えていると述べたはず。

> 爆発をどう抑え制御するかという事は、

ものわかりが悪いなぁ。「抑えるべきではない」といってるだろうが。戦争や犯罪を必ずしも否定しない、と書いたろうに。同じ事を何度も書かせないでほしいね。意見が違うのは構わないが、相手の考えがどんなものであるかは速やかに理解するようになれるべき。

> もしも仮に人類が滅亡したり破滅的な事態が起きたとしても一向に構わないとする立場ですか。

持続可能な発展可能な社会が大事だと思っているから、滅亡は困るね。しかし「滅亡しないように○○すべき」という考えはダメだと思うよ。それは共産主義と同じ発想。資本主義がこのまま進むと悲惨な社会になる、だから共産主義社会を作ろう、となったわけだが、こざかしい人間の知恵で未来をコントロールすることなど所詮は無理な話。結果は承知の通り惨憺たるものだった。下手に制約をはめず自由な試行錯誤と自然淘汰こそが破滅を回避する最善の方法だと俺は信じている。その方が個々の局面では犠牲者は多いかも知れないが、文明そのものが再起不能なまでに滅びてしまう可能性は低くなる。たとえば共産主義が資本主義を完全に打ち負かして世界を覆っていたらどうなっていたことか。回避すべきは一つの思想、一つの価値観に塗りつぶされてしまうこと。たとえそれが「破滅を回避しよう」という思想であっても例外ではない。アンチテーゼである「破滅は回避すべきではない」が必要。

> 誰も幸せになんかなる必要はないとする社会ですか。

大事なのは「社会」であって「個人」ではないと言ったろう?社会が幸せになる(発展していく)ためのものだ。だからそれを構成する個人は、必ずしも幸せにはならないんじゃないかな。まあたまたま一時的に幸せになる人もいるかも知れないし、すごく不幸になる人もいるだろう。どうであれ誰が幸福だとか不幸だとかは重要なことではない。たとえばシャーレで培養してるバクテリアのどれが幸せでどれが不幸せかなんて研究者は考えることなんてないよね。全体としてほどほどに繁殖していればそれでいいわけで。

社会とは人間(個人)のためのものであるべきではない。少なくともあなたが考えるような「幸せ」のためのものではない。個人にとっての幸せとは「平和」であり、それは本質的に「試行錯誤」や「自然淘汰」とは正反対のものだ。苦労せずとも自分が脅かされない状態を「平和」というのだから。常に存在が脅かされ試行錯誤による生存競争が行われることが社会にとって重要。そうでないなら絶対神の導き通り生きていればそれで幸せだと思うけどね。別に人間の幸せにとって科学など大して重要ではないはず。

だいたい疑似科学批判者のやっていることは思想弾圧に近い。あるいは大航海時代にキリスト教の宣教師が土着の文化を塗りつぶしたのと同じ。またあるいは何度か書いているように資本主義に対する共産主義と同じ。もしキリスト教や共産主義がその本質部分に欠陥を持ち、克服できない危機に直面した場合、世界がそれ一色になってしまっていたら、その危機に対してどう対処できたのか。キリスト教の宣教師にせよ共産主義者にせよ、今疑似科学批判者が自分たちこそが正しく世界の人々を幸せに出来ると信じて、自分たちの思想を布教していたはず。なぜそういうものは必ずしも正しくないと知っているのに疑似科学批判だけは「絶対的に正しい」「絶対に間違わない」と信じられるのか。それは「科学」という絶対神を盲信しているからだよ。

科学は人間が生み出した思想体系としては非常にできがよい。しかし当たり前だが絶対ではない。そもそもできがよいのは「成果」の方であって、科学的な姿勢の方ではない。確かに「科学的な姿勢(考え方)」は多くの成果を上げた。実績があることは認めなければならない。しかし「成果」の正当性は根拠を持つが、「姿勢」の方の正当性は単に「その方法で多くの成果を上げた」と言うだけに過ぎない。

たとえばトヨタはこの前まで優良企業だった。トヨタ方式と呼ばれてそのやり方は各方面から高く評価された。トヨタの実績がその正当性を裏付けていた。しかし自動車不況でそれは一転してしまったよね。これまで多くの実績を上げてきた「考え方」だからといって未来永劫・絶対不変に正しいという保証はない。科学的姿勢も同じことだ。人間の心は弱いものだ。だから頼れる「絶対」を求める。疑似科学批判者たちが科学に求めているのも信仰の対象としての科学であって、その殉教者となることでそこに自分のレーゾンデートルを求めようとしている。

だいたい(あなたを始め)疑似科学批判者たちの言動が科学的な姿勢とは対極にあることからも分かるだろうに。相手を侮蔑し排除することが第一の目的であり、科学的なものの考え方などどこ吹く風だ(笑)。疑似科学批判者にとって「科学的な姿勢」などキリスト教徒にとっての聖書や十字架と同じく、ただの信仰の象徴(シンボル)でしかない。中身などどうでもいいんだよ。他人と自分を差別化するために存在するアイテムに過ぎない。「誠実さ」だとか「疑似科学を簡単に判別する方法」だとか、全く科学的な考え方ではない。「汝殺す事なかれ」と定めた神の名の下に多くの異教徒が殺されたのと変わらない。

投稿: titton | 2009年1月 6日 (火) 06:11

人類滅亡を避けるには多様性こそが重要。一つの思想や価値観に染まってしまうから、その思想体系で処理できない危機に直面すると壊滅的なダメージを被ってしまう。人間が様々な遺伝子を持っているのと同じだよ。一種類の遺伝子しかいなかったら、それが対抗できない病気が広まったら個体差もなしにあっという間に絶滅してしまう。人間は少しずつ違うから絶滅に対するリスク分散できている。

共産主義は体制を維持するために袋小路に入ってしまった。実際体制が崩壊したあとのソ連(ロシア)は苦難の連続だったわけで、それを維持することが人々にとっての幸福だと指導者たちが考えたのは無理もない。中世の教会による思想弾圧もその当時社会の秩序を守っていたのは教会なのだから、その権威を傷つけることは社会にとって不利益につながると考えても不思議ではない。

しかし結局それらの価値観は崩壊してしまった。ならば現在の価値観、個人の生命を何より尊重するというのもいつか同様の運命をたどると考えてはいけないのだろうか。人の命を大事とも思わない思想が第3世界のどこかの国に定着し、その国が経済・軍事・文明においてめざましい発展を遂げ、現在の先進国を脅かすまでになった時、我々は今まで通り「人の命は地球よりも重い」などとのんきなことを言っていられるだろうか。

人類数千年の歴史のおいて、現在我々が持っている戦後の価値観はせいぜい50年程度の長さしかないごく最近出来たものだ。様々な価値観が盛衰を繰り広げてきた歴史から見れば、現在の価値観が永久に続くと信じる方が不自然だろう。長い歴史の中では人の命はそれほど重要ではなかった期間の方が多かった。命よりも名誉の方が重視された。人はどのみち死ぬのだからこの考え方はそれなりの妥当性を持つ。逆に言えば自分の生命の維持に拘るだけなら動物でも出来る。

やたらめったら個人の命や幸福が偏重される時代はそんなに長くは続かないと思うよ。どう考えてもこの価値観は無理がある。現在この価値観が繁栄しているのは過渡期の一種の「踊り場」だからだろう。いずれ別の価値観が世界を支配する時期が来る。俺はそう思うよ。

投稿: titton | 2009年1月 6日 (火) 06:39

私の身勝手な質問にたびたび丁寧に回答いただき、ありがとうございます。tittonさんの考える「よい社会」がだいぶ理解できたと思います。最後に、tittonさんの思想・思索をもっと深く勉強しなければならない必要を感じたので、私の今後の勉強のために、tittonさん個人の事についてもいくつか質問させて下さい。
なお、tittonさんには私のような浅薄で独善的感情的な人間の言説など何の価値もないでしょうし、これ以上読まされるのも迷惑でしょうけれど、tittonさん以外にもここを読む人はいるかも知れませんので、繰り返しになりますが、上記Q-1~Q-7に対する私の回答はそのうち述べる事を再び約束します。

【Q-0a】tittonさんは一貫して「疑似科学」「疑似科学批判論者」という言葉を使っているようです。一方で、自らが批判しているモノを「ニセ科学」、自らを「ニセ科学批判者」と称する人が最近では多くなってきているようで、「疑似科学」「疑似科学批判論者」とは明確に区別する傾向が強いようです。たとえば(↓)、
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/index.html
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20081121
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20081126
これを、tittonさんはどう考えますか。

【Q-0b】自らを「疑似科学批判論者」と称する人としては大槻義彦氏と池内了氏などがよく知られていますけど、彼らは多くの自称「ニセ科学批判者」から痛烈に批判されています。たとえば(↓)、
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1230696925
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20080521/p1
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20080111#p1
これを、tittonさんはどう考えますか。

【Q-0c】tittonさんの思想・思索をより深く正しく勉強するために、tittonさんのまとまった言説を読む事のできる場、ないし、tittonさんによる具体的な各論や時事問題などに対する見解などを読む事のできる場があれば教えて下さい。また、tittonさんが高く評価する思想・論評・論者などがありましたら教えて下さい(思想・論評については、既存の学問上の主義・理論・文献などでもWebページ上の言説などでも構いません)。

投稿: 田部勝也 | 2009年1月 8日 (木) 23:21

今までで一番くだらない内容だね。最近になってニセ科学と呼ぼうと呼びかけている人たちがいるのは知っているが、俺はそういう主張に賛同しない。だから基本的に俺は疑似科学と書いている。もっと単刀直入にいえば俺は菊池誠に賛同しない。

大槻義彦については彼が疑似科学批判を始めた当初からウォッチしているし、俺自身大槻を批判することも多々あるが、もちろん彼は正しいこともいろいろいっているわけで、是々非々という立場だねその意味では俺の大槻義彦に対するスタンスは、俺の菊池誠に対するスタンスと同じ。池内了は…ん~他の二人に比べればあまり関わり合いはないね。

なんというかさ、宗教の宗派争いと同じ次元に見えるんだよね、誰を信奉し誰を批判するかとか。批判にせよ擁護にせよそれらは個々の主張単位にこの主張は正しい、この主張はおかしいというように行われるべきで、人間単位にこの人は信用できる、この人は信用できないと批判するのはおかしいわけで。

そもそも大槻も以前は疑似科学批判者たちから脚光を浴び救世主みたいに考えられていた時期が合ったと思うよ。しかし彼は勢い余ってたびたびむちゃくちゃな方法で疑似科学批判を繰り返し、結局彼自身がトンデモさん扱いされるようになってしまった。

けどね、疑似科学を科学と差別化し社会から排除しようとすれば結局は大槻と同じ末路をたどると思うよ。菊池誠もいずれ同じ運命になると俺は踏んでいる。なぜなら疑似科学と科学は区別できないというのが俺の持論だからね。それを無理矢理区別しようとするならば、疑似科学批判者自身が疑似科学的な手法を取り入れなければならなくなる。ミイラ取りがミイラにならざるを得ない。疑似科学を社会から排除しようという使命に燃えた時点でその人もまた疑似科学論者の仲間入りする。

最後の質問は、自分で探してみることですな(笑)これほどあなたのために文章を書かせておいて、不十分だからまとまった文章を読ませろというのは何様だろう。

投稿: titton | 2009年1月 9日 (金) 04:54

だいたいさぁ、「疑似科学批判者」とか「ニセ科学批判者」とか呼び名で、誰が誰から批判されてるかなんて、全く宗教のソレだよね。とにかく少しでも自分と違うものの存在を許さないというばかげた考え方だ。大槻が批判されるのは何も「疑似科学批判者」と自称しているから批判されているわけではないわけで、そういう背景をすっ飛ばして、呼び方が違うから批判されているんだとか、あなたって馬鹿だとは思ってたけどこれほど馬鹿だとは思わなかったよ。

ニセ科学という呼び方は菊池誠がアジテーションのために使い出した言葉だ。キャッチフレーズなわけだよ。それは人間の思考を単純化し扇動するためのものだ。「ニセ科学と科学は区別できる!」という思想を普及させるためのものなのだから、そういう考え方を否定している俺が自分から好んで使うわけがないだろうに。

本当の科学的姿勢とはそういう外見的なものや扇動的な物に惑わされず、あくまで先入観を廃し冷静に対象だけを分析する行為であり、その意味で菊池誠の一連の言動は科学とは対極的なもの(その意味では大槻の言動も同じだが)。俺は菊池にせよ大槻にせよ彼らの科学的な姿勢の部分は評価しているよ。しかし扇動的な行為は全く評価していないしむしろ批判している。

菊池や大槻のやっていることは科学の名を騙った政治(社会)運動であり、別に彼らがそういう運動をするのは自由だが、科学の名の下に行うのは科学を悪用する行為であり、その意味では彼らのやっていることは疑似科学論者と変わらない。(科学とは関係のない)自分たちの主張のために科学を利用しているのだからね。くりかえしになるが「科学」と「社会」の関係はどうあるべきか(疑似科学は批判されるべきか)という問題は、科学の範囲の問題ではなく、社会の問題なのだから、科学の名をちりばめて主張すべきではない。

だいぶ前に述べたと思うが、「科学的に正しいこと」が正しいのは科学の世界の中のルールであって、その外側には「科学的に正しくないこと」が正しい世界、「科学的に正しい」ことが正しくない世界、がある。もちろん「科学的に正しい」ことが正しい世界もある。どの世界が望ましいのかは、科学は何も語らないし語れない。それは人間社会の価値観の問題であり、科学では扱えないものなのだから。そういう主張を正当化するのに科学の名を使うべきではない。

投稿: titton | 2009年1月 9日 (金) 09:52

tittonさんに蒙を啓いてもらい、tittonさんの思想や哲学にできるだけ近づくために、tittonさんの学ばれてきた道(tittonさんの学ばれた書物や思想家など)を一から虚心坦懐に辿り直してみたいと思ったのですけど、私などがtittonさんの高みにまで達するなんてそもそも不可能ですから、確かに分不相応な申し出でしたね。申し訳ありませんでした。

ただ、tittonさんはここで何度も「多様性こそが重要」と強調してくれました。私のような奇特で愚かな感情的人間にとって何と心強いメッセージでしょう。私のような無思慮な人間が感情論をぶちまける事は決して悪い事ではない、人の考えとは違う事でも(tittonさんの考えと違う事でさえ)好きなだけ主張しても良い――いやむしろ、人と違う事こそ(tittonさんの考えと違う事こそ)声を大にして主張すべきだ――と、tittonさんは励ましてくれている……。それは私のように自分の考えに確固たる自信を持てずに悩み苦しみながら持論を世に問うだけの小心者にとって、何よりのエールです。

tittonさんは、自分が恐れる唯一の事は、世界が一つの思想や価値観に染まってしまう事だと繰り返し繰り返し述べます。
私のような浅学で愚鈍な人間がどこで何を言っても、世界が一つの思想や価値観に染まってしまう事などありえません。いやそれどころか、どんな人間が何をしようとも、世界が一つの思想や価値観に染まってしまう事など決してありえないと、歴史が証明しています。
「多様性こそが重要」と強調するのは、きっと、「世界が一つの思想や価値観に染まってしまうべきだ」と主張する人の存在すら、tittonさんは望んでいるからなのでしょう。なんと自由で素敵な世界観でしょう。

ですから、私はこれからも安心して愚かな持論を述べ続ける事ができます。tittonさんの深い洞察のその全容については無学な私にはついに理解が及びませんでしたが、そんな私にさえ自らの想いを積極的に発言していく事に大きな自信と意義を与え励ましてくれたtittonさんに心より感謝します。ありがとうございました。

投稿: 田部勝也 | 2009年1月20日 (火) 01:20

なんかずっと忙しかったのがいいタイミングで暇になったようだね。言っておくけど俺はあなたに誠実さとか真摯さを全く感じることができない。そういう人間誠実さが大事だとか言うのは滑稽なのだけれど、人間は自分にないものを求めるのかも知れない。

安直な疑似科学批判をしてる人って、結局それを自己実現の手段として選んでいるだけだと思うんだよね。そんなんで自己実現できるとは思えないのだが、錯覚することはできるのかも知れない。

投稿: titton | 2009年1月20日 (火) 17:18

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